月食水族館の回遊路 第9話「第8章:白い魚の正体」
遥の元へ辿り着こうとする澪の前に、巨大な質量が立ちふさがった。 それは魚というよりは、半透明の雲が凝集したような、不定形の怪物だった。体長は二十メートルを超え、その皮膚の下には無数の「顔」が浮かび上がっては消えていく。それは第零水槽に取り込まれた人々の、あるいは彼らを想う生者たちの、数えきれない未練の集合体だった。それは美しくもあり、同時に吐き気を催すほどにおぞましかった。怪物の周囲には、強い電磁波のようなノイズが走り、澪のダイブコンピュータを狂わせた。 白い魚が口を開く。そこは光さえ届かない深淵の入り口のようだった。 凄まじい吸引力が澪を襲う。水中の塵や泡と共に、彼女の体は怪物の体内へと吸い
遥の元へ辿り着こうとする澪の前に、巨大な質量が立ちふさがった。
それは魚というよりは、半透明の雲が凝集したような、不定形の怪物だった。体長は二十メートルを超え、その皮膚の下には無数の「顔」が浮かび上がっては消えていく。それは第零水槽に取り込まれた人々の、あるいは彼らを想う生者たちの、数えきれない未練の集合体だった。それは美しくもあり、同時に吐き気を催すほどにおぞましかった。怪物の周囲には、強い電磁波のようなノイズが走り、澪のダイブコンピュータを狂わせた。
白い魚が口を開く。そこは光さえ届かない深淵の入り口のようだった。
凄まじい吸引力が澪を襲う。水中の塵や泡と共に、彼女の体は怪物の体内へと吸い寄せられていく。周囲を回遊していた影たちが、次々とその巨大な口の中へと吸い込まれていくのが見えた。彼らは抵抗することなく、むしろ安らぎを求めるように吸い込まれていく。彼らにとって、この怪物の胎内は、苦しみのない永遠の安息地に見えるのだろう。
「くっ……!」
澪は腰のベルトから、清掃用の強力なスクレーパーを取り出した。本来は水槽の岩にこびりついた頑固な苔を削ぎ落とすための道具だが、今の彼女にとっては唯一の武器だ。
怪物の体表に突き立てる。感触はない。まるで霧を切り裂いているかのような手応えのなさ。それどころか、スクレーパーを通して、怪物の冷気が澪の腕へと伝わってくる。その冷気は骨まで凍てつかせ、彼女の意志を削り取っていく。彼女の腕は感覚を失い、スクレーパーを握る力さえ失われそうになる。
その時、澪の脳内に直接、無数の声が流れ込んできた。
『行かないで』『置いていかないで』『もっと話したかった』『ごめんなさい』『私が代わりになればよかった』『もう頑張らなくていいんだよ。ここなら誰も君を責めない』
それは澪自身の声でもあった。十二年間、心の中で何度も繰り返してきた、父への呪詛と祈り。そして、母が死ぬ間際に漏らした「お父さんのところへ行きたい」という呟き。それらが重なり合い、巨大な合唱となって彼女の精神を揺さぶる。
白い魚は、その感情をエネルギーにして、澪を「影」の一員に変えようとしていた。彼女の意識を過去の幸福な記憶――父と海辺を歩いた日、母が作ってくれた弁当の味、初めて水族館で魚を見た時の感動――で埋め尽くし、現実を忘れさせようとする。現実の苦しみ、孤独、将来への不安。それらから逃げて、ここへおいでと囁く。
意識が遠のく。体が軽くなる。もう、苦しまなくていい。この冷たい水の中で、父と一緒に泳ぎ続ければいい。海洋生物学なんて難しい勉強も、深夜の辛い清掃作業も、もうしなくていいんだ。そんな甘い誘惑が、水の冷たさを心地よい眠りへと変えていく。彼女の視界が白く染まっていく。
その時、澪の手の中で、あのペンダントがかつてないほど激しく発光した。
青い光が白い魚の皮膚を透過し、その内部を照らし出す。それは、闇の中に灯った一筋の真実の光だった。
怪物の核――そこに、一枚の古びた紙片が漂っているのが見えた。それは、この悪夢を終わらせるための、たった一つの「鍵」だった。父が命を懸けて残した、最後のメッセージ。