月食水族館の回遊路 第10話「第9章:手放すための記録」
それは、父の手帳から破り取られた最後のページだった。 澪は最後の力を振り絞り、白い魚の体内へと手を伸ばした。指先が紙片に触れた瞬間、周囲の景色が再び一変した。 嵐の海も、巨大な怪物の姿も消え去った。 そこは、光に満ちた静かな水底だった。どこまでも透明な水の中に、柔らかな陽光が降り注いでいる。水面を見上げれば、光の網が揺らめき、まるで教会のステンドグラスのようだった。そこには恐怖も寒さもなく、ただ穏やかな時間が流れていた。 目の前に、父が立っていた。十二年前のあの夜の姿のまま、彼は穏やかな微笑みを浮かべて澪を見つめていた。その姿は、かつての記憶よりもずっと鮮明で、ずっと優しかった。彼の周りには、
それは、父の手帳から破り取られた最後のページだった。
澪は最後の力を振り絞り、白い魚の体内へと手を伸ばした。指先が紙片に触れた瞬間、周囲の景色が再び一変した。
嵐の海も、巨大な怪物の姿も消え去った。
そこは、光に満ちた静かな水底だった。どこまでも透明な水の中に、柔らかな陽光が降り注いでいる。水面を見上げれば、光の網が揺らめき、まるで教会のステンドグラスのようだった。そこには恐怖も寒さもなく、ただ穏やかな時間が流れていた。
目の前に、父が立っていた。十二年前のあの夜の姿のまま、彼は穏やかな微笑みを浮かべて澪を見つめていた。その姿は、かつての記憶よりもずっと鮮明で、ずっと優しかった。彼の周りには、小さな魚たちが楽しげに泳いでいた。父はゆっくりと手を差し出した。
「……お父さん」
澪の目から涙が溢れ、泡となって上昇していく。レギュレーターを通して漏れる声は、嗚咽となって水中に溶けた。
「どうして、行ってしまったの。どうして、私を一人にしたの。私、ずっとお父さんを恨んでた。でも、本当は……ただ、会いたかっただけなの。お父さんがいない世界で、どうやって生きていけばいいのか分からなかった。私、お父さんの代わりになろうとしてた」
ずっと言いたかった言葉。十二年間、誰にも言えずに心の奥底に沈めていた想い。父の影は何も答えない。ただ、澪の手の中にある紙片を指差した。
澪はそこに記された文字を読んだ。それは暗号ではなく、娘への最後の手紙だった。父が死を覚悟した瞬間に書いたのか、あるいはこの水槽の中で書き残したものなのかは分からない。だが、そこには彼の魂が刻まれていた。
『澪へ。お前がこれを読んでいるということは、私はもう隣にいないのだろう。
私は、あの少女を救ったことを後悔していない。ダイバーとして、一人の人間として、目の前の命を見捨てることはできなかった。それが私の選んだ生き方だ。だが、お前を一人にしてしまったことは、私の唯一の未練だ。
この水槽は、私の未練がお前を縛り付けるために作ってしまったものかもしれない。私がここを去れないのは、お前が私を呼び続けているからだ。お前の悲しみが、私をここに繋ぎ止めている。私がここにいる限り、お前は前へ進めない。
だが、覚えておいてくれ。海は命を奪う場所ではない。命を育み、繋いでいく場所だ。お前が海洋生物学者になりたいと言った時、私は本当に嬉しかった。お前の瞳の中に、私が見たのと同じ海の輝きを見たからだ。その輝きを絶やさないでくれ。
澪、お前は光の中にいろ。私のことは、ここに置いていっていいんだ。私を許さなくていい。ただ、自分の人生を生きてくれ。お前が笑って生きることが、私にとっての本当の救済なんだ。さあ、行きなさい。光の差す方へ。私はいつでも、お前の心の中にいる』
父の姿が、徐々に光の中に溶けていく。
彼は澪を救うために海へ飛び込んだのではない。自分の信念に従って生き、その結果として命を落としたのだ。それを「自分を捨てた」と解釈し、呪縛に変えていたのは、他ならぬ澪自身だった。父は私を捨てたのではない。私に「生きる」というバトンを渡したのだ。
「……分かったよ、お父さん」
澪は紙片を強く握りしめた。
「私は、もう大丈夫。あなたの記録を、私が完成させるから。あなたが愛した海を、私がもっと深く知るから。だから……もう、ゆっくり休んで。さよなら、お父さん。ありがとう」
父の影が、満足そうに頷いた。次の瞬間、父の姿は数えきれないほどの小さな光の粒となり、白い魚の体を内側から崩壊させていった。それは、十二年間の呪縛が解けた瞬間だった。光の粒は澪の全身を包み込み、彼女に力を与えた。