月食水族館の回遊路

月食水族館の回遊路 第8話「第7章:12年前の潮騒」

水の底へ潜るほど、音は遠ざかり、代わりに「記憶」が耳元で囁き始める。 澪の視界が歪んだ。第零水槽の黒い海水が、突如として激しい白波へと姿を変える。アクリルパネルの冷たさは消え、代わりに頬を刺すような冬の潮風と、凍てつく雪の礫が彼女を襲った。ウェットスーツの隙間から入り込む冷水が、体温を容赦なく奪っていく。 ――それは、十二年前のあの夜だった。 冬の日本海。吹き荒れる暴風雪が視界を奪い、漆黒の海面からせり上がる高波が、堤防を幾度となく飲み込んでいた。幼い澪は、父の大きな背中にしがみついていた。父のウェットスーツのゴムの匂い、そして彼が発する微かな体温だけが、彼女の世界の全てだった。父の背中は、ど

水の底へ潜るほど、音は遠ざかり、代わりに「記憶」が耳元で囁き始める。
 澪の視界が歪んだ。第零水槽の黒い海水が、突如として激しい白波へと姿を変える。アクリルパネルの冷たさは消え、代わりに頬を刺すような冬の潮風と、凍てつく雪の礫が彼女を襲った。ウェットスーツの隙間から入り込む冷水が、体温を容赦なく奪っていく。
 ――それは、十二年前のあの夜だった。
 冬の日本海。吹き荒れる暴風雪が視界を奪い、漆黒の海面からせり上がる高波が、堤防を幾度となく飲み込んでいた。幼い澪は、父の大きな背中にしがみついていた。父のウェットスーツのゴムの匂い、そして彼が発する微かな体温だけが、彼女の世界の全てだった。父の背中は、どんな壁よりも頼もしかった。彼女はその温もりを一生忘れないと思っていた。
「澪、ここで待っていろ。動くんじゃないぞ。いいか、絶対に海を見るな。目を閉じて、十まで数えるんだ。終わる頃には、全部終わっているから」
 父の声は風の咆哮にかき消されそうだったが、その手は驚くほど温かかった。彼は澪の頭を一度だけ撫でると、荒れ狂う波の下へと視線を向けた。その瞳には、恐怖ではなく、確固たる決意が宿っていた。彼は一瞬だけ、澪に寂しそうな笑顔を見せた。
 海には、高波にさらわれた近所の女の子が浮き沈みしていた。彼女の小さな赤いコートが、荒れ狂う白波の中で絶望的に目立っていた。父は迷うことなく、救助隊の到着を待たずに、ウェットスーツ一枚でその地獄のような海へと飛び込んだ。
 澪は叫んだ。行かないで、お父さん。私を置いていかないで。
 だが、幼い声は嵐の咆哮にかき消される。父の頭が波間に見え隠れし、やがて完全に消えた。数分後、女の子は別の救助隊によって引き上げられた。だが、父は戻らなかった。翌朝、海は嘘のように静まり返っていたが、父の姿はどこにもなかった。残されたのは、岸壁に打ち捨てられた父の潜水手帳だけだった。それは、父が最後に触れていた唯一の物だった。
 その光景が、第零水槽の中で鮮明に再現される。澪は水中でありながら、冷たい潮風の匂いを感じ、頬を打つ雪の痛みを思い出した。
「これは幻覚だ……。私は今、水族館の中にいる。これは、私の記憶が作り出した罠だ。父はもういない。でも、私はここにいる。私は生きているんだ!」
 自分に言い聞かせるが、意識が過去に引きずり込まれていく。指先が痺れ、体が重くなる。過去の自分を助けたい、父を止めたいという強い衝動が、彼女の判断力を奪おうとする。もしあの時、もっと強く引き止めていたら。もし私がもっと聞き分けの良い子だったら。父は今も生きていたのではないか。
 ふと見ると、荒れ狂う波の下に、巨大な「白い魚」の影が泳いでいるのが見えた。それは十二年前のあの夜から、ずっとそこにいたのだ。人々の後悔を喰らい、成長し続けてきた怪異。それは、澪が十二年間抱え続けてきた「もしあの時」という未練の化身だった。
 その時、波間から小さな手が伸びてきた。
 白いワンピース。遥だ。彼女は過去の澪と同じように、冷たい海の中で絶望に沈もうとしていた。彼女の瞳には、かつての澪と同じ、救いを求める光が宿っていた。彼女もまた、自分のせいでお兄さんが死んだと思い込み、その罪悪感に飲み込まれようとしている。
「遥ちゃん!」
 澪はフィンを蹴った。過去の自分を救うことはできない。失われた時間は戻らない。だが、今、目の前で沈んでいく彼女なら救えるはずだ。それが、私がここに来た理由だ。父が果たせなかった「救済」を、今度こそ私が成し遂げる。私はもう、過去に縛られるのは終わりにする。