月食水族館の回遊路

月食水族館の回遊路 第7話「第6章:境界線の崩壊」

次の皆既月食は、今夜だ。 今回の月食は「スーパー・ブラッド・ムーン」と呼ばれ、月が地球に最も近づき、赤黒く染まる。第零水槽の力が最大になり、現実と幻影の境界が最も薄くなる時だ。この機会を逃せば、遥を救い出すことは二度とできないだろう。澪は自分の人生を取り戻すためにも、この戦いに挑む覚悟を決めた。 澪は、水族館の備品倉庫からダイビング機材を盗み出した。かつて父に教わった潜水の技術。海を恐れて封印していたその技能を、今、自分を救うために、そして遥を救うために使う時が来た。ウェットスーツに袖を通すと、懐かしいゴムの匂いが鼻をつく。それは父の匂いでもあった。ボンベの重みが、彼女の肩に責任の重さとしての

次の皆既月食は、今夜だ。
 今回の月食は「スーパー・ブラッド・ムーン」と呼ばれ、月が地球に最も近づき、赤黒く染まる。第零水槽の力が最大になり、現実と幻影の境界が最も薄くなる時だ。この機会を逃せば、遥を救い出すことは二度とできないだろう。澪は自分の人生を取り戻すためにも、この戦いに挑む覚悟を決めた。
 澪は、水族館の備品倉庫からダイビング機材を盗み出した。かつて父に教わった潜水の技術。海を恐れて封印していたその技能を、今、自分を救うために、そして遥を救うために使う時が来た。ウェットスーツに袖を通すと、懐かしいゴムの匂いが鼻をつく。それは父の匂いでもあった。ボンベの重みが、彼女の肩に責任の重さとしてのしかかる。
 夜の静寂を切り裂くように、月が欠け始める。
 館内の空気が一変した。水槽の中の魚たちが一斉に狂ったように泳ぎ回り、照明が明滅する。水槽のアクリルパネルが、内側からの圧力で軋むような音を立てている。まるで、建物全体が苦痛に悶えているかのようだった。配管からは蒸気が吹き出し、警告灯が赤く点滅している。
 澪は旧濾過室の扉の前に立った。ペンダントが胸元で激しく熱を帯びている。それは警告のようでもあり、道標のようでもあった。
「行かなきゃ。今行かないと、遥ちゃんが本当の『影』になってしまう。お父さん、私を見ていて。私はもう、逃げないから」
 扉を開けると、そこにはもはや通路はなかった。
 床も壁も消失し、ただ無限に広がる黒い海がそこにあった。天井には、赤黒く染まった月が浮かんでいる。その光は、水面を血のような色に染め上げていた。重力さえも曖昧になり、境界線が溶け合っている。澪は一歩踏み出すと、そのまま虚空へと落下した。
 澪はマスクを装着し、レギュレーターを口に咥えた。シュコー、シュコーという自分の呼吸音だけが、自分がまだ生きていることを証明していた。心臓の鼓動が耳元でうるさいほどに響く。
 重力から解放される感覚。彼女は意を決して、その深淵へと飛び込んだ。
 水温は零度に近い。肺が凍りつくような感覚に襲われながらも、澪はフィンを力強く蹴り、下方へと潜っていく。潜るほどに、周囲の景色は水族館から遠ざかり、果てしない深海へと変貌していく。水圧が全身を締め付け、視界が狭まっていく。
 そこには、昼間見たのとは比較にならない数の「影」が、巨大な渦を巻いて回遊していた。彼らは皆、幸せそうな、それでいて虚ろな表情で泳いでいる。彼らの囁き声が、水の振動となって澪の全身を揺さぶる。それは、数千人分の後悔が奏でる不協和音だった。
 そしてその中心に、全てを飲み込もうとするかのような、巨大な「白い魚」が姿を現した。それは美しくも恐ろしい、この「未練の回遊路」の主だった。その目は、千の魂を映し出しているかのように怪しく光り、巨大な鰭を動かすたびに水流が激しく渦巻いた。