月食水族館の回遊路 第6話「第5章:監視画面の幻影」
久遠はそれ以上の説明を拒み、澪に「二度と近づくな」と厳命した。 だが、澪は止まらなかった。清掃員の制服は、夜の館内において最強の迷彩服だ。彼女は深夜、警備員の巡回ルートを熟知した動きで、監視センターのサブ端末にアクセスした。かつて父に教わった、機械の「癖」を読む技術がここで役に立った。彼女はサーバー室のわずかな隙間に身を隠し、冷たい空調の風に耐えながら作業を続けた。 ターゲットは、第零水槽の入り口があるはずの、旧濾過室のカメラだ。このカメラは公式の記録からは除外されているが、保守用のバックアップ回線にはデータが残っているはずだ。 指がキーボードを叩く音が、静かな部屋に響く。いくつかのプロテクト
久遠はそれ以上の説明を拒み、澪に「二度と近づくな」と厳命した。
だが、澪は止まらなかった。清掃員の制服は、夜の館内において最強の迷彩服だ。彼女は深夜、警備員の巡回ルートを熟知した動きで、監視センターのサブ端末にアクセスした。かつて父に教わった、機械の「癖」を読む技術がここで役に立った。彼女はサーバー室のわずかな隙間に身を隠し、冷たい空調の風に耐えながら作業を続けた。
ターゲットは、第零水槽の入り口があるはずの、旧濾過室のカメラだ。このカメラは公式の記録からは除外されているが、保守用のバックアップ回線にはデータが残っているはずだ。
指がキーボードを叩く音が、静かな部屋に響く。いくつかのプロテクトを潜り抜け、記録映像を早送りする。心臓の音がうるさく感じられた。月食が始まった昨夜の午前二時。
画面が激しく乱れ、ノイズの中から映像が浮かび上がる。そこには、久遠が一人で扉の前に立ち、何かに祈るように項垂れている姿があった。彼は扉の向こうに向かって、何度も謝罪の言葉を口にしていた。その姿は、威厳ある館長ではなく、ただの弱り果てた老人のようだった。
そして、その背後。扉がゆっくりと開き、中から一条の光が漏れ出す。
光の中から、一人の男が現れた。
ウェットスーツを纏い、背中には酸素ボンベを背負っている。顔は判然としないが、その歩き方、肩の揺らし方、澪には分かった。それは十二年間、夢にまで見た父の姿だった。
「お父さん……」
父は久遠の肩に手を置き、何かを囁いた。久遠は泣き崩れ、父は再び光の中へと戻っていく。その去り際、父はカメラのレンズを真っ直ぐに見つめ、何かを「外」へ向かって投げた。
それが、澪が拾ったペンダントだったのだ。
父は生きているわけではない。だが、死に絶えたわけでもない。彼は今もあの冷たい水槽の中で、迷い込んだ人々の意識が「向こう側」へ行かないよう、防波堤のように留まり続けているのだ。彼は自らを犠牲にして、この街の未練が溢れ出さないように守っている。水族館のスタッフの間では、夜になると「白い影」が水槽を掃除しているという噂があったが、それは父のことだったのかもしれない。
そして、父がペンダントを投げたのは、澪を呼ぶためではない。
――「ここに来るな」という、最後の警告だったのではないか。あるいは、「もう私を忘れてくれ」という願いだったのか。だが、澪にはそれが「助けてくれ」という悲鳴のようにも聞こえた。