月食水族館の回遊路 第5話「第4章:館長の沈黙」
水族館に戻った澪を待っていたのは、館長の久遠だった。 彼は事務室の椅子に深く腰掛け、窓の外の海を見つめていた。夕暮れの海は、血のような赤色に染まっている。澪が部屋に入っても、彼は視線を動かさない。室内には、古い書物と消毒液の匂いが混じり合っていた。壁には、この水族館の建設当時の写真が飾られていた。若かりし日の久遠と、澪の父が肩を組んで笑っている写真だ。 「昨夜、あそこへ行ったね」 久遠の声は低く、感情が読み取れなかった。 「……第零水槽のことですか。館長、あそこは何なんですか。なぜ遥ちゃんや、死んだはずの人たちが泳いでいるんですか。父も、あそこにいるんですか。教えてください、あなたは知っている
水族館に戻った澪を待っていたのは、館長の久遠だった。
彼は事務室の椅子に深く腰掛け、窓の外の海を見つめていた。夕暮れの海は、血のような赤色に染まっている。澪が部屋に入っても、彼は視線を動かさない。室内には、古い書物と消毒液の匂いが混じり合っていた。壁には、この水族館の建設当時の写真が飾られていた。若かりし日の久遠と、澪の父が肩を組んで笑っている写真だ。
「昨夜、あそこへ行ったね」
久遠の声は低く、感情が読み取れなかった。
「……第零水槽のことですか。館長、あそこは何なんですか。なぜ遥ちゃんや、死んだはずの人たちが泳いでいるんですか。父も、あそこにいるんですか。教えてください、あなたは知っているはずだ。父と何を作ったんですか」
久遠はようやく顔を上げた。眼鏡の奥の瞳には、深い疲労と、拭いきれない後悔の色が混じっていた。彼はデスクの上の小さなスノードームを弄んでいた。その中には、小さな水族館の模型が入っている。
「あそこは、この街の『澱み』だ。雨宮、君の父親と私は、かつてこの場所に眠る特殊な磁場を発見した。それは人々の強い想い、特に死者への未練を具現化し、保存してしまう場所だ。私たちはそれを『回遊路』と呼んだ。当初、私たちはそれを研究対象としていたが、やがてそれが人々の精神を吸い寄せる性質を持っていることに気づいた。私たちは、そのエネルギーを安定させ、人々の悲しみを癒す場所を作ろうとしたんだ」
「保存……? 彼らは生きているんですか、死んでいるんですか!」
「どちらでもない。彼らは『思い出』という名の檻に閉じ込められているんだ。彼らの意識は、最も幸福だった過去か、あるいは最も悔やんでいる瞬間に固定されている。私はそれを救済だと思っていた。愛する人を失った人々が、夢の中でだけ再会できる場所。この水族館は、その『回遊路』を安定させ、暴走を防ぐための巨大な濾過装置として設計されたんだ。だが、磁場は私たちの想像を超えて成長してしまった」
久遠は右手の袖を捲り上げた。そこには、火傷のような、しかしどこか鱗を思わせる奇妙な痣が広がっていた。
「第零水槽に触れすぎた者は、徐々に現実との境界を失う。君の父親は、それを止めるために命を落としたんだ。彼は、あの水槽を閉じるための『鍵』を探していた。だが、その途中で……事故が起きた。彼は私を助けるために、自ら水槽の奥へと消えたんだ。私は逃げることしかできなかった。あの日から、私の時間は止まったままだ」
久遠の言葉は震えていた。彼は父を見捨てたのではないか。そんな疑念が澪の頭をよぎるが、彼の表情にあるのは純粋な絶望だった。
「君には関係のないことだ。二度とあそこへは近づくな。これは君を守るためだ。君まで失ったら、私は健一に合わせる顔がない。あそこは、もう私の手に負える場所ではないんだ」
久遠はそう言って、澪を部屋から追い出した。だが、彼の拒絶は、むしろ澪の決意を固める結果となった。父が残した「鍵」が何なのか、それを突き止めるのは自分しかいない。