月食水族館の回遊路 第3話「第2章:潜水記録の暗号」
寮の自室に戻った澪は、机の引き出しの奥から一冊の手帳を取り出した。 雨宮健一。十二年前に冬の荒れた海で、溺れる少女を助けようとして帰らぬ人となった父の遺品だ。警察から返却された時、その手帳は海水でふやけ、多くのページが判読不能になっていた。インクは滲み、文字は幽霊のようにぼやけている。革の表紙は潮を吸って硬くなり、独特の磯の香りが染み付いていた。その手帳は、澪にとって父の唯一の形見であり、同時に彼女を縛り付ける呪縛でもあった。 しかし、今夜見た「第零水槽」の紋章を思い出しながらページをめくると、これまで意味不明な数字の羅列だと思っていた記述が、別の意味を持ち始めた。 『月食の夜、影が重なる刻。
寮の自室に戻った澪は、机の引き出しの奥から一冊の手帳を取り出した。
雨宮健一。十二年前に冬の荒れた海で、溺れる少女を助けようとして帰らぬ人となった父の遺品だ。警察から返却された時、その手帳は海水でふやけ、多くのページが判読不能になっていた。インクは滲み、文字は幽霊のようにぼやけている。革の表紙は潮を吸って硬くなり、独特の磯の香りが染み付いていた。その手帳は、澪にとって父の唯一の形見であり、同時に彼女を縛り付ける呪縛でもあった。
しかし、今夜見た「第零水槽」の紋章を思い出しながらページをめくると、これまで意味不明な数字の羅列だと思っていた記述が、別の意味を持ち始めた。
『月食の夜、影が重なる刻。水面は鏡となり、未練は道となる』
父の筆跡は、後半に進むにつれて乱れていた。まるで、何かに追われながら、あるいは自分の意識が混濁していくのを食い止めようとしながら書いたかのように。
『戻れなくなった者のために、回遊路の底に鍵を置く。だが、それは死者を呼び戻すためのものではない。生者が光へ帰るための……』
そこで記述は途切れ、次の数ページは無惨に破り取られていた。
澪は翌日、かつて父の同僚だったという元ダイバーの佐伯を訪ねた。彼は今、港の近くで小さな釣具店を営んでいる。
「佐伯さん、父が最後に調べていたことについて、何か知っていませんか?」
佐伯は古びたパイプを燻らせながら、遠い海を見つめた。
「健一か……。あいつは、水族館の地下にある『穴』について調べていた。そこには人々の記憶が流れ込む場所があるんだと言ってな。俺はそんなの迷信だと笑ったが、あいつは真剣だった。あいつは、何かを連れ戻そうとしていたんじゃない。むしろ、何かを『終わらせよう』としていたんだ」
佐伯の言葉は、澪の胸に重く響いた。終わらせる。父は、この水族館の設立に関わっていたはずだ。当時、海洋生物学者として嘱託職員を務めていた父は、館長の久遠と親交が深かった。二人はこの場所で、何を見つけたのか。この水族館は、単なる展示施設ではなく、何か別の目的のために作られたのではないか。
澪は、父を責め続けてきた自分を思い出した。なぜ、幼い私を置いて、見ず知らずの誰かのために命を懸けたのか。なぜ、私だけが取り残されなければならなかったのか。その問いは、十二年間、澪の心の中で鋭い棘となって刺さり続けていた。
母は父の死後、心を病み、数年前に後を追うように亡くなった。澪は一人、奨学金を得て海洋生物学の道へ進ようとしたが、海を見るたびに父の最期がフラッシュバックし、結局は大学を休学してこの水族館の裏方へと逃げ込んだのだ。
だが、今、父の手帳が語りかけている。あの冷たい水槽の中に、父が残した「答え」があるのだと。澪は夜通し手帳を読み込み、数字の羅列が水族館の濾過システムのバルブ番号と、月食の進行度を示していることを突き止めた。それは、父が残した緻密な計算の跡だった。