月食水族館の回遊路 第2話「第1章:第零水槽の出現」
その通路は、館内マップのどこにも記されていないものだった。 澪は清掃員専用のマスターキーを握りしめ、湿った空気の漂う闇へと足を踏み入れた。壁面はコンクリートではなく、ゴツゴツとした岩肌が露出している。まるで自然の洞窟をそのまま利用したかのような造りだ。足元には薄く水が溜まっており、歩くたびにパチャパチャと不気味な音が響く。その音は、静まり返った館内で異様に大きく聞こえた。壁からは微かに塩分を含んだ水が滴り、彼女の頬を濡らした。 通路は緩やかに下っており、奥へ進むほど空気は冷たくなっていく。鼻をつくのは、潮の匂いというよりも、もっと古く、澱んだ水の匂いだ。それは、長い間誰にも触れられずにいた場所
その通路は、館内マップのどこにも記されていないものだった。
澪は清掃員専用のマスターキーを握りしめ、湿った空気の漂う闇へと足を踏み入れた。壁面はコンクリートではなく、ゴツゴツとした岩肌が露出している。まるで自然の洞窟をそのまま利用したかのような造りだ。足元には薄く水が溜まっており、歩くたびにパチャパチャと不気味な音が響く。その音は、静まり返った館内で異様に大きく聞こえた。壁からは微かに塩分を含んだ水が滴り、彼女の頬を濡らした。
通路は緩やかに下っており、奥へ進むほど空気は冷たくなっていく。鼻をつくのは、潮の匂いというよりも、もっと古く、澱んだ水の匂いだ。それは、長い間誰にも触れられずにいた場所特有の、沈黙の匂いだった。あるいは、忘れ去られた記憶が腐敗した匂いかもしれない。
突き当たりに、重厚な鋼鉄の扉があった。そこには、父の潜水手帳に何度も描かれていた、あの紋章が刻印されている。澪は鍵を差し込もうとしたが、扉は触れるだけで重々しく開いた。蝶番が軋む音さえしない、不自然なほど滑らかな動きだった。扉の向こうからは、耳鳴りのような低いハミングが聞こえてきた。
扉を開けた瞬間、澪は息を呑んだ。
そこには、直径五十メートルはあろうかという巨大な円筒形の水槽が鎮座していた。館内のどの水槽よりも深く、暗い。水は青を通り越して黒に近く、底が見えない。天井には巨大な鏡が設置されており、そこには地上で欠け始めた月が、ぼんやりとした赤みを帯びて映し出されていた。鏡の表面は微かに波打っており、現実の空を映しているとは思えないほど幻想的だった。その光景は、この世の果てにある祭壇のようでもあった。
「第零水槽……」
誰に教わったわけでもないのに、その名前が自然と口をついて出た。
水槽の中を、無数の影が回遊していた。それは魚ではなかった。人の形をしていた。スーツを着た男、買い物袋を提げた主婦、そして、先ほどの白いワンピースの少女。彼らは目を閉じ、まるでおだやかな眠りの中にいるかのように、ゆっくりと巨大な円を描いて泳いでいる。
その動きは、イワシの回遊に似ていた。個々の意志はなく、ただ巨大な流れの一部として、終わりのない旅を続けている。彼らの周りには、小さな銀色の魚たちが付き添うように泳いでいたが、それらもまた、どこか透き通っていて実体がないように見えた。彼らは生きた人間というよりは、誰かが捨て去った未練の断片が形を成したもののようだった。
「遥ちゃん?」
澪は、半年前に行方不明になり、ニュースを騒がせた少女の名前を呼んだ。
少女の影が反応したようにピクリと動く。しかし、彼女の瞳が開くことはなかった。彼らは生者でありながら、その意識はどこか遠い場所に繋ぎ止められているようだった。ここにあるのは彼らの肉体ではなく、あるいは意識の断片なのか。澪はアクリル越しに手を伸ばしたが、そこにあるのはただの冷たい壁だった。
水槽の海水に指を触れてみる。氷のように冷たかった。通常の熱帯魚用はおろか、深海魚用の水槽よりも遥かに低い温度。それは、生身の人間が耐えられる限界を超えている。だが、その冷たさの中に、澪は微かな温もりを感じた。それは、かつて父の背中で感じた、あの安心感に似ていた。あるいは、母が死の間際に握ってくれた、あの冷たくて熱い手の感触に。