月食水族館の回遊路 第1話「プロローグ:青い影の誘い」
夜の水族館は、巨大な生き物の胎内に似ている。 機械室から響く低い唸りは心臓の鼓動のようで、循環する水の音は血管を流れる血液のさざめきだ。十九歳の雨宮澪は、重い高圧洗浄機のホースを引きずりながら、閉館後の「大洋の回廊」を歩いていた。 ゴム長靴が濡れたコンクリートを踏む音が、高い天井に反響しては消えていく。深夜の清掃作業は、彼女にとって唯一、世界から切り離されるための儀式だった。ここでは誰とも話す必要はなく、ただ目の前の汚れを落とし、透明な硝子の向こう側に広がる青い静寂を守るだけでいい。清掃員の制服である紺色のつなぎは、彼女の心を保護する鎧のようなものだった。彼女は毎晩、展示パネルの指紋を拭き取り
夜の水族館は、巨大な生き物の胎内に似ている。
機械室から響く低い唸りは心臓の鼓動のようで、循環する水の音は血管を流れる血液のさざめきだ。十九歳の雨宮澪は、重い高圧洗浄機のホースを引きずりながら、閉館後の「大洋の回廊」を歩いていた。
ゴム長靴が濡れたコンクリートを踏む音が、高い天井に反響しては消えていく。深夜の清掃作業は、彼女にとって唯一、世界から切り離されるための儀式だった。ここでは誰とも話す必要はなく、ただ目の前の汚れを落とし、透明な硝子の向こう側に広がる青い静寂を守るだけでいい。清掃員の制服である紺色のつなぎは、彼女の心を保護する鎧のようなものだった。彼女は毎晩、展示パネルの指紋を拭き取り、床に落ちたポップコーンの欠片を拾い集める。それは、華やかな昼の余韻を消し去り、純粋な「水」の世界を取り戻す作業だった。
今夜は三年ぶりの皆既月食だという。地上では大勢の人間が空を見上げ、赤銅色に染まる月をスマートフォンのカメラで追いかけているのだろうが、地下二階に位置するこの水路には、月の光さえ届かない。ただ、展示水槽から漏れる青い光だけが、澪の作業着を冷たく染めていた。
水槽の中では、数千匹のイワシが銀色の雲となって回遊している。彼らには意志があるのだろうか。ただ群れの流れに従い、ぶつからないように泳ぎ続けるだけの存在。澪は時折、自分もその群れの一員であるかのような錯覚に陥る。大学を休学し、夢を捨て、ただ夜の静寂を掃除して回るだけの生活。それは、緩やかな回遊と何が違うのだろう。彼女の人生もまた、決まった円を描いて同じ場所を回っているだけのように思えた。
「……また、あの子だ」
澪は足を止めた。
巨大なアクリルパネルの向こう側、イワシの群れが渦巻く銀色のカーテンの奥に、小さな人影が見えた。白いワンピースを着た、十歳くらいの少女だ。彼女は水の中にいるはずなのに、髪も服も揺れることなく、ただじっとこちらを見つめている。その瞳は、深海のように暗く、それでいて何かを強く訴えかけているようだった。その視線が澪の胸を貫き、凍りついた記憶を微かに揺らす。
この水族館で働くようになって三ヶ月。月食が近づくにつれ、澪は度々この幻影を目にするようになっていた。最初は見間違いだと思った。過労による幻覚か、あるいは水槽の光の屈折が生んだ悪戯だろうと。しかし、その少女の姿は、あまりにも鮮明で、あまりにも悲しげだった。彼女はまるで、厚い硝子の壁に隔てられた別の世界から、こちら側へ手を伸ばそうとしているかのようだった。その姿は、かつて鏡の中で見た、自分自身の幼い頃の面影に似ていた。
少女がふわりと右手を上げた。その指先から、小さな青い光がこぼれ落ちる。光はゆっくりと沈み、水槽の底ではなく、あろうことかアクリルパネルを透過して、澪の足元へと転がってきた。
カラン、と硬質な音がコンクリートの床に響く。
澪は恐る恐る腰を屈め、それを拾い上げた。指先に伝わるのは、金属の冷たさと、使い込まれた物の滑らかさ。それは、古びた銀の枠に嵌められた、深い青色の石のペンダントだった。
「どうして……」
石の表面には、見覚えのある傷が刻まれていた。それは十二年前、父が海へ消える直前まで身につけていたものと、全く同じ意匠だった。父の趣味だった、月と魚を組み合わせた紋章。澪は震える指でその傷をなぞった。あの嵐の夜、父の首元で鈍く光っていたはずのものが、なぜ今、ここにあるのか。それは死んだ父からの、あるいは海そのものからの招待状のように思えた。
顔を上げると、少女の姿は消えていた。代わりに、本来そこにはないはずの暗い通路が、イワシの水槽の脇に口を開けていた。まるで、誰かがそこを通るのを待っていたかのように。澪は吸い寄せられるように、その闇へと足を踏み入れた。