月食水族館の回遊路

月食水族館の回遊路 第12話「第11章:月食の終わり」

アクリルパネルの向こう側で、久遠館長と警備員たちが驚愕の表情でこちらを見ていた。 澪は遥を抱えたまま、最後の力を振り絞って水面へと浮上した。 水族館の天井にある巨大な天窓から、光が差し込んでいた。月食が終わり、赤銅色の影が消え去った月が、本来の清浄な輝きを取り戻し始めている。その光は、水面をキラキラと銀色に染め上げていた。 「ぷはっ……!」 水面に顔を出し、冷たい空気を肺いっぱいに吸い込む。生きて帰ってきたのだという実感が、全身を駆け巡った。冷たいはずの空気があたたかく感じられた。澪は水面に浮かびながら、夜空を見上げた。月は美しく、そして静かだった。 「……助かったのね」 遥が小さく呟き、澪の

アクリルパネルの向こう側で、久遠館長と警備員たちが驚愕の表情でこちらを見ていた。
 澪は遥を抱えたまま、最後の力を振り絞って水面へと浮上した。
 水族館の天井にある巨大な天窓から、光が差し込んでいた。月食が終わり、赤銅色の影が消え去った月が、本来の清浄な輝きを取り戻し始めている。その光は、水面をキラキラと銀色に染め上げていた。
「ぷはっ……!」
 水面に顔を出し、冷たい空気を肺いっぱいに吸い込む。生きて帰ってきたのだという実感が、全身を駆け巡った。冷たいはずの空気があたたかく感じられた。澪は水面に浮かびながら、夜空を見上げた。月は美しく、そして静かだった。
「……助かったのね」
 遥が小さく呟き、澪の胸の中で声を上げて泣き始めた。彼女の涙は、もはや未練ではなく、生きて家族に会える喜びの涙だった。彼女の瞳には、再び生の色が宿っていた。
 水槽の縁に上がり、駆け寄ってきた久遠に遥を引き渡す。久遠は震える手で少女を抱きしめ、床に膝をついて何度も「すまない」と繰り返していた。彼は館長として、友人の遺志を継ぐと言いながら、実は自分自身も過去に囚われていたのだ。彼は第零水槽を維持することで、死んだ親友との繋がりを保とうとしていたのかもしれない。
 澪は濡れたウェットスーツのまま、床に座り込んだ。全身の力が抜け、指一本動かすのも億劫だった。だが、心は驚くほど軽かった。胸の奥に詰まっていた重い塊が、すっかり消えていた。
「雨宮……君は、やり遂げたんだね。健一が果たせなかったことを。そして、私を救ってくれた」
 久遠が澪を見つめた。その眼鏡の奥の瞳には、かつての虚ろさはなく、現在を見据える力強さが戻っていた。彼の腕の痣は、嘘のように消え去っていた。未練の呪縛は解けたのだ。
「館長、第零水槽はもう消えました。人々の未練は、もうここにはありません。これからは、ここをただの『魚たちの家』にしてください。過去を保存する場所ではなく、今を生きる生き物たちのための場所に。それが父の願いだったはずです」
「ああ。約束しよう。私が生きている限り、二度とあのような場所は作らせない。明日からは、新しい水族館の歴史を始めよう。君の父親が夢見ていた、本当の水族館を」
 澪は首を振った。
「父は、誰かを救うために死んだんじゃないと思います。ただ、自分が信じる道を歩いただけなんです。私も、そうありたい。誰かのためではなく、自分の意志で海と向き合いたいんです。だから、私は私の道を行きます」
 水族館の照明が、通常通りの穏やかな光に戻っていく。
 夜が明けようとしていた。東の空が白み始め、新しい一日が始まる。澪は自分の手を見つめた。そこには、新しい人生を切り拓くための力が宿っていた。