月食水族館の回遊路

月食水族館の回遊路 第13話「第12章:光差す水面」

一ヶ月後。 月守大水族館の夜間清掃の現場には、新しいアルバイトの青年が立っていた。 彼は先輩清掃員から引き継ぎを受けていたが、その先輩――雨宮澪は、今日が最後の勤務日だった。彼女の表情は、一ヶ月前とは別人のように明るく、瞳には確かな希望の光が宿っていた。髪を少し切り、心なしか背筋も伸びている。彼女は後輩に、掃除のコツだけでなく、水族館の生き物たちへの愛情を伝えていた。 「いいか、濾過装置のフィルター掃除は手を抜くなよ。ここが詰まると、水槽全体の『呼吸』が苦しくなるからな。魚たちだって、綺麗な水で泳ぎたいんだ。私たちの仕事は、彼らの命の基盤を作ることなんだから。地味な仕事だけど、これがなければ彼

一ヶ月後。
 月守大水族館の夜間清掃の現場には、新しいアルバイトの青年が立っていた。
 彼は先輩清掃員から引き継ぎを受けていたが、その先輩――雨宮澪は、今日が最後の勤務日だった。彼女の表情は、一ヶ月前とは別人のように明るく、瞳には確かな希望の光が宿っていた。髪を少し切り、心なしか背筋も伸びている。彼女は後輩に、掃除のコツだけでなく、水族館の生き物たちへの愛情を伝えていた。
「いいか、濾過装置のフィルター掃除は手を抜くなよ。ここが詰まると、水槽全体の『呼吸』が苦しくなるからな。魚たちだって、綺麗な水で泳ぎたいんだ。私たちの仕事は、彼らの命の基盤を作ることなんだから。地味な仕事だけど、これがなければ彼らは生きていけないんだよ」
 澪の言葉は的確で、以前のような冷たさは消えていた。彼女は清掃という仕事に誇りを持ち、それが命を支える大切な営みであることを理解していた。彼女は最後の一拭きを終えると、満足そうに頷いた。
「はい! あの、雨宮さんは明日から大学に戻るんですよね?」
「ええ。海洋生物学の道は険しいけど、私には解き明かさなきゃいけない記録があるから。父が残した、本当の海の姿をね。それに、いつか自分の手で、新しい水族館を作ってみたいの。未練ではなく、未来を展示するような場所を。子供たちが、海を見て夢を抱けるような場所をね」
 澪は事務室のデスクに置かれた、一冊の真新しいノートを叩いた。それは父の潜水記録を整理し、彼女自身の新たな知見を加えた研究計画書だった。彼女は休学届を取り下げ、復学の手続きを済ませていた。
 遥は無事に家族の元へ戻り、あの夜のことは「不思議な夢」として彼女の記憶の中で整理されているという。芳江さんからも丁寧な手紙が届いた。彼女たちもまた、失われた兄や息子のことを、悲しみではなく思い出として語り合えるようになったという。芳江さんは最近、地域のボランティア活動を始めたそうだ。彼女たちの家には、再び笑い声が戻っている。
 水族館を出ると、眩しい朝の太陽が海面を照らしていた。
 かつては恐ろしい深淵に見えた海が、今はキラキラと輝く希望の器に見える。波の音は、もはや死者の囁きではなく、新しい命の鼓動に聞こえた。
 澪は深く息を吸い込み、一歩を踏み出した。背負ったリュックサックの中には、父の手帳と、自分がこれから書き込む真っ白なノートが入っている。彼女の歩みは力強く、迷いはなかった。