月食水族館の回遊路 第11話「第10章:回遊路の決戦」
白い魚が絶叫のような音を立てて霧散していく。 だが、その崩壊に伴い、第零水槽全体のエネルギーバランスが崩れ始めた。人々の未練という支えを失った空間が、物理的な法則を取り戻し、崩壊し始めたのだ。水槽内の水圧が急上昇し、厚いアクリルパネルに蜘蛛の巣のような亀裂が走る。ギギギ、という不気味な音が響き渡り、巨大な水圧が澪の鼓膜を圧迫する。 「遥ちゃん!」 澪は正気に戻った遥の体を抱きかかえた。 「澪さん……? ここは……おじさんは? お兄ちゃんはどこ?」 「後で説明するわ。今は、ここから出るわよ! しっかり私に捕まって! 絶対に手を離しちゃダメよ!」 しかし、本来の出口である鋼鉄の扉は、膨大な水圧によ
白い魚が絶叫のような音を立てて霧散していく。
だが、その崩壊に伴い、第零水槽全体のエネルギーバランスが崩れ始めた。人々の未練という支えを失った空間が、物理的な法則を取り戻し、崩壊し始めたのだ。水槽内の水圧が急上昇し、厚いアクリルパネルに蜘蛛の巣のような亀裂が走る。ギギギ、という不気味な音が響き渡り、巨大な水圧が澪の鼓膜を圧迫する。
「遥ちゃん!」
澪は正気に戻った遥の体を抱きかかえた。
「澪さん……? ここは……おじさんは? お兄ちゃんはどこ?」
「後で説明するわ。今は、ここから出るわよ! しっかり私に捕まって! 絶対に手を離しちゃダメよ!」
しかし、本来の出口である鋼鉄の扉は、膨大な水圧によって固く閉ざされていた。外からの力ではびくともしない。このままでは水槽が爆発し、二人は水圧で押し潰されるか、崩壊する空間に飲み込まれてしまう。周囲の壁が剥がれ落ち、暗黒の虚無が広がっていく。
澪は思考を巡らせた。パニックになりそうな心を、清掃員としての冷静さが繋ぎ止める。彼女は毎晩、この水族館の配管図を頭の中で描きながら掃除をしていた。どのバルブがどこに繋がり、どのポンプがどの程度の圧力に耐えられるか。
「濾過システムの逆流……」
第零水槽は、館内のメイン濾過システムと密かに接続されている。大量の海水を循環させ、不純物を取り除くための巨大なフィルター。その構造を、澪は毎晩の清掃で熟知していた。
澪は水槽の底にある、巨大な吸水口へと向かった。そこには通常、強力なファンが回っているが、今は水槽の崩壊による異常電流で停止しているはずだ。
「遥ちゃん、息を止めて! 私にしっかり捕まって! 絶対に手を離さないで!」
澪は吸水口の緊急開放レバーを引いた。
凄まじい勢いで水が吸い込まれていく。通常なら死を意味する行為だが、澪には確信があった。この先は、館内の中央展示水槽へと繋がっている。配管の直径は十分にあり、逆流を利用すれば脱出できる。
暗い配管の中を、二人は濁流に揉まれながら進んだ。壁面に体が打ち付けられ、激しい痛みが走る。ウェットスーツが破れ、肌が削れる感触がある。酸素ボンベの残量は残りわずか。警告のアラームが水中に虚しく響く。肺が焼けるような痛みに襲われ、意識が朦朧とするが、澪は遥の手を決して離さなかった。この手を離せば、父の願いを裏切ることになる。彼女は自分の限界を超えて、ただひたすらに前へ進んだ。
暗闇の先に、青い光が見えた。
ドォン! という衝撃と共に、二人は広い水槽の中へと放り出された。そこは、イワシの群れが銀色の渦を巻く「大洋の回廊」のメイン水槽だった。二人は銀色の魚たちの祝福を受けるように、水の中を舞った。それは、死の淵からの帰還だった。