学園機甲部の合唱隊 第9話「第8章」
廊下の足音は、古い木造の学舎に馴染んだように吸い込まれた。咲良は封筒の端を切ったまま、背後の影に向けて顔をゆっくり上げた。そこにいたのは矢野透だった。夜の薄暗さが、彼の額の汗をいっそう陰影深く見せている。手には小さな懐中電灯と、いつもの工具箱ではなく、学内の古い端末が抱かれていた。
廊下の足音は、古い木造の学舎に馴染んだように吸い込まれた。咲良は封筒の端を切ったまま、背後の影に向けて顔をゆっくり上げた。そこにいたのは矢野透だった。夜の薄暗さが、彼の額の汗をいっそう陰影深く見せている。手には小さな懐中電灯と、いつもの工具箱ではなく、学内の古い端末が抱かれていた。
「こんな時間に来るとは思わなかった」咲良の声は思ったよりも低く、そして震えていた。
矢野は軽く肩をすくめ、床に膝をついて端末を開いた。画面は古いOSのままだが、彼の指先は慣れていて、それだけで安心感が生まれる。「理央から連絡が来てな。君が記録室に入ったらしいって。これ、見せてくれる?」
咲良は封筒の中身を差し出した。そこに入っていたのは、黄ばんだ五線譜と、薄い羊皮紙のような紙に印刷された古歌譜。表題は「瑞音(桜庭瑞音)——付録:部分不在符号」と手書きで書かれているように見えた。頁の隅には、小さな図形が繰り返し記されている。外形は輪郭の抜けた円に、ギザギザの小さな線が幾つか刺さるように入る──胸に刻まれた“不在”の紋様と同じだった。
矢野は紙を拡げて指先で符号の輪郭をなぞった。指の腹に、わずかな凹凸を感じる。「……これは、機体の記録用の符号だ。僕が格納庫で見たやつと同じだ。胸部のあれに刻むマーカー。ここにあるってことは、歌詞そのものがシステム構成の一部だった可能性が高い」
「言葉になると、危ないって聞いた。合唱外での歌詞は──」咲良は声を潜めた。学園の規則が、体の奥の戒めとしていつも働く。歌詞を口にすることは発動コードの公開にあたり、禁忌であり重罰の対象だった。だが、譜面は目の前に在る。指先で触れるだけで、喉の奥に古いリズムが震えた。
矢野は眼鏡の奥でじっと咲良を見る。「君、昨夜格納庫にいたんだろ。あのときの光、見たんだろ」
咲良は頷いた。昨夜、胸部紋様が光った瞬間に浮かんだ瑞音の断片──叫び、静寂、そして声の消失。あの感覚は、単なる夢ではなかった。彼女の中に残る前世の断片が、紙の上の符号とつながる気配がした。
「歌詞を口に出さないでほしい。僕の提案はこうだ」矢野が端末を咳払いして開き、古いデータベースにアクセスする。学園保存用のアーカイブは、いくつかの部分がデジタル化されていないままだったが、白桐重工の旧技術文書のコピーが隅のフォルダに眠っていた。「これ──白桐の研究資料の写しと、規制局への申請記録。『音律応用――』ってやつだ。ここに、誰かが学園に接触した記録が残っている」
矢野の指がスクロールする。古いメールのやり取り、草稿、そして学園外からの訪問者名簿。訪問者の欄には、見覚えのある名前が混ざっていた。相模真理の名が記録の片隅に挟まれている。そこに添えられたメモは短く、「意見交換──声の制御と保全について」とある。手帖の消し跡が多く、文章はよれよれであったが、確かに真理の名が他社資料に残されている。
「真理が、白桐に?」咲良の声は震えた。相模真理は昔の合唱部リーダーで、今は学外の合唱団にいると聞いていた。彼女がどのようにして声を失ったのか、その話は断片的にしか伝わってこない。だがここに名前があるということは、過去の繋がりが白日の下にあるということだ。
矢野はさらに古いログに手を伸ばす。「それだけじゃない。ここに学園ネットワークへの外部アクセスの履歴がある。日付は五年前。アクセス先の通信先が──学園の外部サーバを経由して、ある団体に繋がっている。団体名は伏せてあるが、メタデータに『符号A-03』とある。君の持っている譜面に書かれている符号だ」
咲良は譜面に視線を戻した。符号A-03──まるで空白を指し示すような記号。胸部の“不在”紋様も、そこに刻まれたラインが欠落の輪郭を示していた。彼女は手の中の紙をぎゅっと握る。もしこの符号が、歌鎧の感情回路を構成する「コードの一部」ならば、古歌はただの文化ではなかった。機体の挙動と、歌う者たちの感情を直接結びつけるものなのだ。
「翳声会……かもしれない。外部の影を名乗る集団だ。活動記録に、似たような符号が使われているらしい」矢野の声は小さく、しかし確信を含んでいた。「だけど、これを外部に出したら駄目だ。規則で厳しく禁じられている。合唱外で歌詞を公開することは、学園処分どころか機体の自律ロックを招く可能性がある」
「だからここに置いておくの?」咲良は問い返す。胸の奥に重くのしかかる選択。事実を隠すことは仲間の安全に対する裏切りかもしれない。告げることは学園をさらに危険に晒すかもしれない。
「いや」矢野は首を横に振った。「まずは内部で、理性的に検証する。茜にも見せるべきだ。彼女が指揮を取れるかどうかで、安全な扱い方が変わる。だが手順は厳密に。写真やデジタル化は最小限に留めて、学園の監査委員会と非公開で連絡を取る。白桐や規制局にこの情報が漏れたら、彼らは直ちに動く」
咲良は、封筒の端に付いた自分の指紋を見つめた。記録室の空気は埃の匂いと古い紙の匂いが混ざり合い、何か懐かしい匂いを思い出させた。その懐かしさの縁が、最近はしょっちゅう削がれている。代償は確かに現実だった。彼女が知らずに歌の断片を口に出さない限り、記憶の一枚はまた失われる。それでも真実を追う欲求は強かった。
「分かった」咲良は小さく息を吐いた。「だけど、私からは誰にも言わない。理央たちには、まず茜と矢野だけ。私の記憶がどう変わるか肌で感じているから、安易に大勢を巻き込みたくない」
矢野は深く頷いた。「いい判断だ。秘密を増やすわけじゃない。ただ、順序を守る。僕はここに記録を残すけど、アクセスは制限する。外部に出る前に、必ず君の了承を取る」
古歌譜の頁をめくると、そこには短い旋律とともに、いくつもの注釈が手書きで加えられていた。注記の文字は古い手つきで、ところどころ擦れて判読しにくい。咲良は目を細め、最も濃いインクの文字を読む。そこには「部分不在 補完による共鳴の危険」とだけ記されていた。短い警告。けれど、その言葉が示す重さは計り知れない。
「これが起動コードの一部だとして」矢野が呟く。「問題は、誰がその‘補完’を意図的に作り出しているかだ。翳声会のやり方は、歌の一部を奪うことで空白を作り、機体を暴走に導く。空白を埋めたくない者はそれを狙う。ここにある譜は、そうした行為の痕跡かもしれない」
咲良は胸の奥で何かが冷たく凍るのを感じた。自分たちが守ろうとしているものは、ただの遺産ではない。使われ方次第で、人を傷つける道具になり得る。
「矢野君」咲良の声がより強くなった。「外部に通報する前に、相模真理に関する記録をもっと探して。彼女の動機、どこで声を失ったのか、そして彼女が何を封じたのか。真理の名がここにあるのは偶然じゃない。彼女の記録は、翳声会の行動の鍵になるかもしれない」
「わかった。一緒に探そう」矢野は即答した。その瞳には少しの狂おしさにも似た決意が宿っている。「でも今は移動しよう。ここに長居はできない。誰か通報したのかもしれないし、夜は何が起きるか分からない」
二人は古い記録室の灯りを消し、暗闇の中を忍び足で離れた。廊下を抜けると、夜の空気が冷たく頬を刺した。学園の外から