学園機甲部の合唱隊 第20話「第18章」
海は夜の風で薄く波立ち、岸辺の岩肌に黒い縞を作っていた。遠くの灯台が規則正しく瞬き、波間に浮かぶ何かの輪郭をときどき照らす。倉庫での小さな試みから数時間後、咲良と茜、矢野、理央は、学園の荷車に詰めた簡易アンテナとバッテリ、矢野の自作装置を抱えてこの海辺に立っていた。潮の匂いが鼻を刺し、夜冷えが襟を立てさせる。理央の腕には包帯が巻かれている。昼間の小競り合いで負った傷を応急手当したままだ。
海は夜の風で薄く波立ち、岸辺の岩肌に黒い縞を作っていた。遠くの灯台が規則正しく瞬き、波間に浮かぶ何かの輪郭をときどき照らす。倉庫での小さな試みから数時間後、咲良と茜、矢野、理央は、学園の荷車に詰めた簡易アンテナとバッテリ、矢野の自作装置を抱えてこの海辺に立っていた。潮の匂いが鼻を刺し、夜冷えが襟を立てさせる。理央の腕には包帯が巻かれている。昼間の小競り合いで負った傷を応急手当したままだ。
「あの点のところだって、矢野が言った場所だよね?」茜の声は地図を手にしたときよりも低く、しかし確実だった。灯りは小さく見失いがちで、海面に浮かぶ赤い点が、矢野の端末の地図上の印とぴたり重なった。
「うん。航行ログから残党の航路を復元して、海底の断面を当てた。白桐の残党は試作機を完全に回収するつもりで沈めたはずだが、機体のシリアルと符号が一致しなかった。あの場所に一体だけ残されている可能性が高い」矢野はざっくりと要点を述べ、冷えた手でアンテナの支柱を組み立て始めた。手際は変わらない。だが彼の瞳には昼間の騒ぎが消えていない。
咲良は足元の砂を蹴って、胸の奥にある、掠れた旋律の断片をたぐった。あの夜に感じた波のような反応。それが再現できれば、逆歌の掴みができる──だが、その反応を引き出すことは、和音許諾の範囲を逸脱しかねない。共鳴舷の有無、学園敷地外での同調、合唱外での歌詞——規則は頭をぐるぐる回る。
「単独起動は絶対にダメだ。合唱外で歌詞を出すのもダメ。代償は忘れちゃいけない」茜が囁く。彼女の手は震えていないが、言葉が重かった。
「分かってる。今回は探知だ。前にやったのと同じ、小さいハミングで反応を見に行くだけ。もし反応が出たら、すぐにやめる。誰の同意もなしに進めるつもりはない」咲良は深く胸を吸った。自分だけの声で動かすことの危うさを、身体が覚えている。古歌の一節を口にすることは許されない。だがハミングは、まだ規則のグレーに触れるか触れないかの境目だった。
矢野はアンテナの同軸を咲良に向けて差し出した。「心拍同期は遠隔では滑稽なほど難しい。だがウェアラブルで脈をリレーすれば、遅延を最小限にできる。理論上、学園敷地外の試作機にも一時的に共鳴圏を伸ばせる。完全起動には及ばないし、和音許諾の範囲外だが、あくまで反応確認だ。問題は、その“微弱反応”が何を引き起こすかだ」
理央が咲良の手を取る。「君が苦しそうだったら、僕が止める。約束するよ」
その約束に、咲良は一瞬だけ微笑んだ。幼い頃のかけらを失うリスクが、さりげなく胸の背後で冷たく疼く。しかし選択はもう決めていた。彼女は小さく喉を鳴らした。倉庫でやった合図を繰り返すような短いハミング。低い根音が夜の空気を撫でる。矢野が装置に指を走らせ、心拍のリレーを開始した。ウェアラブルが胸の鼓動を拾い、小さな無線でアンテナへ伝えられる。遅延は許容範囲に収まっていた。
端末のスペクトルに、波形のざわめきが現れた。赤い点の動きと同期して、海面にほんのわずかな反射が生じる。咲良の胸が、何かに引かれるように震えた。彼女は意識の端で、遠くの記憶を掴もうとする。瑞音の笑い、最後に消えた歌の断片。だがそれは、つかの間。彼女は理央の手を握りしめ、ハミングを続けた。
「来た」矢野の声が震えた。モニタの赤いラインに、複雑なパターンが浮かんだ。それは単なるノイズではなかった。振幅の中に、古歌譜に刻まれていた符号に似た周期が垣間見える。咲良はそれを嗅ぎ取る。古歌の一節が、機械の胸の中に刻まれている感触。
海面の向こう、赤い点のひとつが強く瞬いた。その瞬間、海底の黒い輪郭が微かに動いた。金属の擦れるような音が波間から混じり、夜の静寂が裂ける。小さな機体の表層に塩が光り、胸部に見える凹みが、ほんの一瞬だけ光を帯びた。符号の線が内側から光を透かすように見えた。
だが同時に、倉庫から来る無線に別の声が混じる。遠くにいたはずの白桐残党の小舟が、こちらの位置を察知して近づいてきているという報告だ。矢野の顔が瞬時に引き締まる。波の上に人影が動く。夜は深く、こちらの小さな明かりは遠目に目立ったのだ。
「待機、撤収は三分で。理央、茜、咲良、速やかに撤退経路を確保しろ。俺はアンテナを温存して最後の解析を取る」矢野が命じる。だがそのとき、黒い影が砂浜に走り、銃口の先端が月光を拾った。残党の一人が無線で叫ぶ。白桐の残党は回収任務を放棄せず、奪回か破壊か、どちらかを選んでいた。
「やられる前にやる!」咲良の直感が叫ぶ。彼女の中の何かが、試作機が静かに呼吸したあの微かな音を守るべきだと言っている。だが規則は頭の中で厳然としている。単独で歌を大きくすることは禁じられている。もし彼女が一声でも強く歌えば、機体の反応は暴走へと転じるかもしれない。代償は記憶の一部、あるいは声そのものを削ぐ痛みだ。
白桐残党が砂を蹴る。理央が前に飛び出し、殴りかかる。銃よりも速く動く人影が拳を叩き込み、理央の片側の肩が大きく弾かれて、血が袖を染めた。茜が咲良の腕を引き、二人は海の方へと滑るように退く。銃声が夜に二発、四発と鳴る。砂が舞い上がり、冷たい海水が彼らの足首を包む。
「理央!」咲良は叫んだ。彼を助け出すために手を伸ばすが、反撃が激しくなる。矢野はアンテナの基部にしがみつきながら、同時にデータを取り続けている。彼の指は震えていた。端末には試作機の胸部符号が次第に明瞭なパターンとして浮かび上がり、古歌譜の断片と一致する線が増えている。
理央は海の中でかろうじて立ち上がり、咲良に向かって手を挙げた。傷は深いが、彼の目は諦めていない。「行け! ここは任せた!」声は血に塗れて震えているが、訴えは明瞭だった。咲良はその手を取った。指先に温度を感じた。彼が自分を守ると言った、その言葉の重さを咲良は受け取る。
「撤収!」茜が叫び、合図と共に二人は砂浜を駆け上がる。矢野は最後のデータをUSBに落とし、アンテナを引き剥がした。海風が赤い血の匂いと油の匂いを混ぜ、彼らの息を荒くした。白桐残党の小舟は岸から引き返し、消えていく。銃声が遠ざかる合間に、咲良の胸に冷たい空虚が差し込む。理央は氷のように冷たく、しかし笑っていた。痛みで目を細めながらも。
「大丈夫か?」咲良は無言で頷き、理央の肩を抱えて走った。血は思った以上に多かったが、止血をすれば命は取り留められる。茜は機材箱を抱え、矢野は一つだけデータを指差した。「見ろ。取れたデータだ。試作機の内部に、胸部紋様と一致する補完符号が彫られていた。しかも、そこには古歌の一節の断片が追記されている。これは…設計者が意図的に歌詞を鍵に組み込んだってことだ」
咲良はその言葉を聞き、胸の中の断片が鋭く疼くのを感じた。試作機はただの兵器ではない。古歌と紐づけられ、何かを封じ、あるいは開くために作られた装置だ。胸部の“不在”紋様と同種の符号が、ここにある。
「でも、ここで完全に同調させるのは無理だ。距離もあるし、和音許諾はない。かと言って、これを放置するわけにもいかない。白桐残党が戻る可能性だってある」矢野は唇を噛んだ。彼の眼に浮かぶのは技術者としての職業病と倫理観の狭間だ。
「どうする?」茜が