学園機甲部の合唱隊 第12話「第11章」
部室の蛍光灯はいつもより冷たく感じられた。午前の薄曇りが窓を通り抜け、机の上で器具の金属がささやく。モニターの波形は規則的に上下し、四つの心拍センサーのラインが一列に並んでいる。矢野の指先が最後のケーブルをひと撫でし、彼の目がチラリと咲良の顔を横切った。その視線は「準備完了」を伝えているのか、それとも「これで本当に大丈夫か」という問いか。
部室の蛍光灯はいつもより冷たく感じられた。午前の薄曇りが窓を通り抜け、机の上で器具の金属がささやく。モニターの波形は規則的に上下し、四つの心拍センサーのラインが一列に並んでいる。矢野の指先が最後のケーブルをひと撫でし、彼の目がチラリと咲良の顔を横切った。その視線は「準備完了」を伝えているのか、それとも「これで本当に大丈夫か」という問いか。
「みんな、最終確認」茜が譜面台のライトを落として口元に仮名の指示を落とした。彼女の声はいつものより堅く、しかし的確だった。「心拍同期、全員0.1秒以内。出力はパッシブ。機体側ラインは物理的に切断した。矢野、フェイルセーフは四重になってる?」
「三重じゃ足りないかなと思ったから増やした」矢野は笑いを含めて言ったが、それは笑いではなかった。「第一層は物理ショート、第二はソフトブレイク、第三は監視アルゴリズム、第四は緊急遮断。どれも独立して働く。外部送信はしない。データは内蔵記録だけだ」
理央は咲良に寄り添い、彼女の手の甲を軽く握る。「僕はこの部屋にいる。君が嫌だと言うなら、すぐに止める。でも、僕は歌わない。約束したとおり」
咲良は頷いた。胸のあたりに小さな空洞があるような感覚が昨夜から続いている。そこに何かが触れられるたび、古い映像が割れる。瑞音の最後の帽子、母の手の形、どれも薄いガラスの向こうの景色になってしまっている。消えていくものの輪郭は彼女のなかで日に日にぼやけていく。だからこそ、彼女は口を閉ざしていた。言葉を出さないこと、それだけを自らに課す罰でもあり防御でもあった。
「声は出さない。ハミングだけ」茜が楽譜台に手を置き、もう一度確認した。「母音だけ。古歌の符号は参照するけど、歌詞は口にしない。位相ノードは僕が指示する。咲良、君はバッファだから、感情の出力を抑えて。笑いでも泣きでも声になったらそこで止める」
四人は列になって立った。心拍センサーがそれぞれの胸に貼られ、ディスプレイに緑の数字が並ぶ。同期が取り付けられると、監視波形が滑らかに揃った。矢野の作った遠隔アンテナは、格納庫内の歌鎧に直接繋がらず、隔壁越しの試験台へと接続されている。共鳴舷の外部サブ系統をパッシブで読む、その約束はどうにか守られていた。
「じゃあ、行くよ」咲良は小さく息を吸った。口は閉ざし、唇だけ震わせる。音は空気に紛れる程度の振動に留められている。だがその位相は、茜が指示した赤いノードに沿って緻密に並んでいる。理央は彼女の指をさらに握り、矢野はモニターに視線を釘付けにした。
ハミングはじわじわと波になった。最初はただの振動だった。だが機器は敏感に反応し、胸部の“不在”紋様の影が遠方で淡く光る。モニターに表示される回路応答は、囁きのように増幅された。
「読み取り開始」矢野の声が低く響く。データがスクロールし、共鳴係数に小さな山が立つ。音程のずれが0.02セント以内に保たれている。だが、完全ではない。古歌の符号は複雑で、位相の微細なズレが即座に音の質感に影響を与えた。
最初の変化は小さかった。数日前まで声を失っていた生徒の一人、宮田(みやた)が、控えめに喉を鳴らしたのだ。彼女は教室の隅で聴講していたが、実験の様子を見守るうちに咳ばらいをして、ひとつ母音を漏らした。音はか細く、小鳥の鳴き声のように教室を抜けたが、その瞬間にモニターが飛躍的なピークを示した。
「来た」茜の指が一瞬震えた。だが喜びの表情は稀薄だった。宮田の顔は色を失い、目がどこか遠くを見ていた。彼女の声は戻ったが、その声の輪郭は以前とは違っていた。感情の起伏が薄く、言葉を選ぶ際に間ができる。まるで感情記憶の縁が削り取られてしまったかのようだ。
「状態観察。被補完者一、声域回復。ただし情緒指数低下」矢野が迅速に報告する。データは裏切らない。回復と引き換えに、記憶の一部が欠落している。声の復元は濃淡を削る代わりに輪郭を作るのだ。
次々と反応が起きた。欠けていたテナーが数名で暫定的に戻り、教室には短い合図音のような和音が生まれた。人々は歓声を上げたい衝動に駆られたが、茜が片手を上げて制した。その目は、喜びの裏に潜む代償をよく知っている。
「止めないで」理央の声が震えた。「止めて、まだ。何かがおかしい。奴らの声は戻ってるけど、人格が薄くなってる。単純化されてる。これは――」
「被補完は時間制限付き」茜が即座に言った。「音源がサンプル的に補完しているから、人格の輪郭が薄まる。それは予想通りの副作用だ。だけど短時間でも声が戻るということは、方法自体は可能だ」
咲良は手のひらに汗を感じた。何かが自分の胸の奥で氷を溶かしているように思えた。記憶の抜け落ちは段々と自分のものになりつつある。先ほど、彼女は幼い頃に母が作ってくれたおにぎりの形を思い出そうとしていた。ふわりと浮かんだのはテーブルの木目だけで、母の笑顔はそこに宿らなかった。実験中、彼女の中の輪郭がまたひとつ剥がれた。
「咲良、大丈夫?」理央の顔が近づく。彼の目には不安と怒りが混ざっている。
「私は――」咲良は言葉を探したが、そこには記憶の窪みがある。「……思い出せない」
空気が一瞬で変わった。茜は唇を噛み、矢野は機器のログを速やかに巻き戻す。データは冷徹に真実を示した。咲良がパッシブでバッファになった間、感情記憶の一部が消失したのだ。心拍同期の位相が微妙に乱れた瞬間、機体は「空白」を埋めようとして、搭乗者の感情を引き出した。引き出された分だけ、記憶は薄れる。
「代償だ」矢野は小さな声で言った。彼の言葉には自戒と痛みが混ざっている。「短期的な成功は出た。でも、その代償は確実に現れる。被補完者は一時的に声を得るが、感情の輪郭が薄くなる。咲良がさらに消えるかもしれない」
茜が譜面台に手を置き、息を整える。「中止」その一言は命令ではなく、祈りに近かった。四人はハミングを止め、機器のログを保存し、モニターの波形が静まり返る。部屋は再び冷たく、しかし重い沈黙が支配した。
だが、その沈黙を破るものがあった。モニターの一部に、不穏なノイズのあとで小さな文字列が残っている。矢野が眉間に皺を寄せ、ログの記録を拡大した。そこに記録されていたのは、被補完者たちの歌声のスペクトルに混入した——未公開の古歌の符号節の断片だった。歌詞そのものは音節に溶けて文字にならず、解析不能な位相のひだになっていた。それが人為的なものなのか、翳声会が残したものなのか、あるいは古い回路の痕跡なのか。四人には判別できなかった。
「これは……」茜が指をさす。「古歌の符号に近い。けれどこんな節、俺たちは見たことがない。未公開の、封じられた節の断片が、声と共に漏れ出した」
その瞬間、部室の扉が唐突にノックされた。三つ、静かな音が続く。四人は顔を見合わせ、緊張が走る。ノックは学園の誰かからだろうか、それとも白桐重工の代表か。矢野が扉に近づいて覗き窓から外を見た。そこには、学園事務局の中年男と、黒いスーツを着た若い男性が立っていた。後者の胸には白桐重工のピンが光る。
「失礼します」若い男が控えめに言った。「私は白桐重工の技術調整担当、片桐と申します。先日の件で、実験成果のご報告があった