学園機甲部の合唱隊 第11話「第10章」
朝の光が、校舎の古いガラスを淡く透かしていた。廊下を歩く足音はいつもの鈍さを取り戻しつつあるが、咲良の胸の奥は昨夜の発見と暴走の余波でまだざわついていた。彼女は理央と矢野、そして茜を伴って、機甲部の小さな会議室に向かった。そこはかつての合唱部の資料が散乱している場所で、古歌の断片を載せた譜面、黄ばんだ記録写真、そして古い共鳴舷の補助回路が、無造作に積まれていた。
朝の光が、校舎の古いガラスを淡く透かしていた。廊下を歩く足音はいつもの鈍さを取り戻しつつあるが、咲良の胸の奥は昨夜の発見と暴走の余波でまだざわついていた。彼女は理央と矢野、そして茜を伴って、機甲部の小さな会議室に向かった。そこはかつての合唱部の資料が散乱している場所で、古歌の断片を載せた譜面、黄ばんだ記録写真、そして古い共鳴舷の補助回路が、無造作に積まれていた。
「事情を整理しよう」茜がテーブルの上の譜面に手を置き、冷静に声を出した。「学園に公的な申請を出す前に、内部で理詰めでやるべきことがある。和音許諾は得られない可能性が高い。規制局は今回の件でさらに厳格になる。白桐と癒着していれば、申請は骨抜きにされるか、返答が出るまでに時間を稼がれる」
矢野はラップトップを開き、昨夜撮った写真と解析メモを映した。胸部の“不在”紋様。古歌譜に刻まれた符号。A-03の紙片。スクリーン上の図は、規則と実態のずれを冷たく示していた。
「ここでできることは二つだ」矢野が言った。「一つは証拠と相関関係の強化。翳声会の符号と白桐の技術文書の類似箇所を示すこと。もう一つは、実験的に和音配列を再設計して、暴走のメカニズムを逆に利用できないか検証することだ。だが後者は危険だ。和音は必ず四声以上、完全五度と長三度の基礎を守らなければならない。禁止事項である合唱外での歌詞公開や、意図的な不協和の使用は厳禁だ。違反すれば機体は自律ロックして、我々は学園の処分だけでは済まない」
矢野の言葉は理詰めだったが、その目には恐れが滲んでいた。機甲の暴走が目の前で起きたばかりだ。彼は設計を触ってきた技術者として、データの冷たさと人間の感情の間で板挟みになっている。
「で、どうやって欠けた声を補うの?」理央が問うた。彼の声には幼馴染としての苛立ちと保護欲が混じる。咲良の顔をまっすぐ見据えたまま、理央は続ける。「誰かを代わりに差し出すわけにはいかない。君がまた記憶を失うなんて、もう耐えられないよ」
咲良は言葉を選んだ。昨夜、譜面の古歌の一節を見つけたときの、胸の奥を引き裂くような懐かしさが蘇る。瑞音――前世の歌鎧隊長の幻影。彼女が何を守ろうとして声を差し出したのか。その輪郭を咲良は嫌というほど見てしまった。
「補完の考え方は二つある」咲良は静かに言った。「一つは外部の声を戻すための技術的な補完。矢野が今持っている保存サンプルや、人為的に合成したハーモニックで一時的に穴を埋める方法。だが、それは短時間しか持たないし、副作用がある。もう一つは、和音の構造自体を変えること。古歌の符号を共鳴舷の位相モジュレーションに組み込み、”共有”という形で感情回路を分散させる——個々の声域を完全に補うのではなく、空白を分散して機体が暴走しないようにする」
茜は眉を寄せ、譜面の符号を追った。「感情回路を分散させる…それは“感情の共有”ってこと?理論的には可能だとしても、心拍同期の遅延や音程の微細なズレで機体挙動が直ちに変わる。完全五度+長三度という基礎を歪めるわけにはいかない。変えるのは位相か、デンシティの割り振り。つまり、和音の”質”を変える」
「位相の操作なら、共鳴舷のソフト層でできるはずだ」と矢野が頷いた。「古歌の符号は、単なる歌詞ではなく、位相変調の座標になっている。それを参照して、各声が持つ周波数帯を再配分すれば、”空白”が一箇所に集中しないようにできる。理論上はね。だが問題は『誰の声をどのように割り振るか』だ。欠けた声域を補うために、既存の声が負担を増やせば負担を受けた者の記憶が失われる。代償は必然だ」
理央が息を詰めた。「また、記憶を差し出すってことか。誰かを潰すような行為を、どうして僕たちは――」
「違う」咲良が遮った。「私は差し出すことをいとわない、とは言わない。でも、もし私が自分の記憶の一部を同期のバッファとして提供できるなら、それは『奪われる』のとは違うはず。私が自らの意思で共有の一角を引き受ける。選んで払う代償にする。それが可能なら、誰かが無理に消耗するよりはマシだと思う」
理央は咲良の顔を見つめた。彼女の目は何かに決着をつけたように穏やかだったが、その穏やかさは冷たくも見えた。理央は咲良の手を取った。指先の温度は彼を落ち着ける一方で、怒りが湧き上がる。
「咲良は僕の幼馴染だ。君が一人で背負うことに正当性なんかない。みんなで考えるべきだ。君だけが犠牲になる理由なんてひとつもない」
だが茜が首を振った。「感情的な反応は分かる。でも、このやり方は現実的なオプションなんだ。私たちが今持つ手段は限られている。翳声会は空白を作る術を持っている。白桐はそれを兵器化する気だ。時間はない。咲良が自分で意思表示したのなら、それを尊重するべきよ。ただし、無謀はさせない」
矢野がデータを示した。画面上でいくつものグラフが動いた。共鳴舷の位相分布、個々の声波のスペクトル、心拍のノイズゲイン。そこに、白桐の資料から抜き出した記号列と翳声会の儀式符号のトレースが重なった。
「気づいたか?」矢野の声には震えがあるが、冷静さは崩れていない。「白桐の技術文書と翳声会の符号が、位相分布の設計図として一致している箇所がある。つまり、企業の一部が翳声会の手法を取り入れている。規制局の書類にも同じ符号が断片的にある。癒着の可能性は高い。だから我々が手続きを踏んで公に訴えるだけでは、時間を稼がれる。先に技術的な反証を出す必要がある」
「反証を出すには、証拠と実験結果がいる」茜が静かに言った。「でも実験は和音許諾と合唱外での歌詞公開の禁止に触れる。古歌の節は特に危険だ。だから今回の実験は、歌詞を声に出さず、母音やハミングだけで行う。古歌の符号は位相座標として用いるが、言葉自体は公開しない。学園内部で非公開で行う、仮の調律検証だ」
その言葉に、理央は小さく唾を飲んだ。「つまり、実験自体は規則のグレーゾーンを突くってことか。もし規制局にバレたらどうなる?」
「バレたら止めればいい」矢野が答えた。「ただし今回は機体そのものを完全起動させるつもりはない。共鳴舷の外部サブ系統を使って、胸部の回路を観測し、和音による回路応答を取得するだけだ。機体を動かすほどの出力は与えない。安全ブレイクは複数用意する。理論と実データを持って監査委員会に非公開で提出する。その後で、証拠が揃えば学園に有利な形で法的に動ける」
咲良はその説明を聞き、喉を鳴らした。どんな安全装置も、音が機体に入り込む瞬間は予測し切れない。代償の可能性はいつも横たわっている。記憶の欠落、感情の麻痺、声の不可逆的喪失。咲良はそれらの言葉を一つずつ自分の中で反芻した。
「私はやる」と咲良は言った。声は静かだが震えていなかった。「私が仮同期のバッファになる。短時間だけ。ハミングで、言葉は出さない。心拍は同期させるけれど、出力は抑える。矢野、茜、理央、みんなが安全装置を確認して。もし少しでも暴走の兆候が出たら、即座に解除して。私が何を失うかはわからない。でも、誰かが不当に声を奪われるのを見過ごせない」
理央の手が、咲良の手の甲を強く握った。目に光が戻る。怒りでも、哀しみでもない。守るべきものを守ると