摩天楼の空中競技者 第8話「第7章」
居酒屋の油じみた木床は夜の蒸気で光り、古い電球が低く瞬く。浮遊マーケットの端にあるその店は、アエラシティの下層らしい匂いで満ちていた──油と布、乾いた魚の匂い、そして誰かが焚いた薄い煤の香り。マコトは写真をじっと見つめたまま、指先で刻印の輪郭をなぞる。写真の紙は黄ばんでいて、線は擦れている。それでも、見覚えのある刻印の一部が残っていた。
居酒屋の油じみた木床は夜の蒸気で光り、古い電球が低く瞬く。浮遊マーケットの端にあるその店は、アエラシティの下層らしい匂いで満ちていた──油と布、乾いた魚の匂い、そして誰かが焚いた薄い煤の香り。マコトは写真をじっと見つめたまま、指先で刻印の輪郭をなぞる。写真の紙は黄ばんでいて、線は擦れている。それでも、見覚えのある刻印の一部が残っていた。
「これ……確かに」リコが低い声で言う。端末のバックライトが彼女の顔を鋭く照らし、工具の油が指先ににじんでいる。彼女は慎重に写真を包み直すように動かし、それをディスクケースの上に置いた。そこには先刻の送風塔の地図の断片と、彼女が収集した局の不自然なログのスクリーンショットが重ねられている。
露店主は背中を丸め、声を潜めた。「あの日、夜に人が動いてた。大きな箱を運んでたって聞いた。あの塔のところだ。で、白い布をかぶせてさ。目立つから、あんまり見なかったんだが……」
アマネの名前が出ると、店の空気が少し固まった。浮遊マーケットでの情報ハブを担う彼女のルートは信頼できる。だがそれでも、ここに至るまでに何人の言葉が潰されたかは、みんな知っていた。
「アマネに繋いだら?」セン・ルイは目の端で店の入り口を見やりながら言った。彼はいつも通りの冷静さを保とうとするが、瞳の下の影が消えない。公的に疑念を提示した直後、彼らは信用を失い、スポンサーの圧力に晒された。今は穏やかに動くしかない。
アマネの通信はすぐに入った。短い文面とともに、暗号化されたファイルが一つ、彼らの端末に送られてきた。文面には短い一文が添えられていた──「見せられるのはこれだけ。解けるかは君次第」。アマネの口ぶりはいつも通りだが、その背後に走る覚悟が伝わる。雑踏の中、彼女のネットワークは確かに動いていた。
「開けてみる」ニコラは無造作に言ったが、その声は硬かった。彼はテーブルに肘を置き、指先で空気を切るような仕草をした。夜の露店の灯りが彼の面影を縁取り、速さを渇望するかのような陰が目に残る。マコトは彼の顔を見た。ニコラの中で何かが揺れているのを、彼は感じ取った。
暗号化ファイルを解く作業は、リコが得意とするところだ。彼女は端末を繋ぎ、古めかしい拾い物の計器片や局から流出した断片ログのパターンと突き合わせた。画面に数字と波形が踊り、リコの指がそれを追う。暫くして、ほんの一部だけが解け、映像とデータの断片が浮かび上がった。そこに映るのは、夜間の送風塔と、幾つかの人影、そして機器の側面に刻まれた、見覚えのある旧式の刻印のアップだ。
「やっぱり……」リコの声が震えた。「この刻印、前に見た破片と一致する。セリフコードの一部も同じ。古い局の前身組織が使ってたものよ」
マコトの耳に、いつもの低い耳鳴りが微かに戻ってきた。昨夜の逃走での乱用が、まだ身体に残響を残している。鼓膜の奥で、遠い機械音が鳴るような感覚。彼はそれを振り払おうとしたが、指先がわずかに震えているのを感じた。
「これで確証になるか?」センが尋ねる。外の木戸がわずかに風で軋み、浮遊マーケットの気配が波紋のように押し寄せた。
「まだ足りない」リコは首を振った。「だが、ここに写っている人影の動き方が不自然だ。見張りを外して、装置を塞ごうとしているような動き。しかも、写真には機器から発せられる波形の残滓が写ってる。それが局の通信の特定帯域と一致するかもしれない」
ニコラが黙っていた。彼は自分の掌の指先を舐め、こわばった沈黙をやっと破った。「父さんの記録の件、俺が持ってる断片を見せる。だが条件がある」彼はテーブルの下に手を潜らせ、薄い封筒を取り出した。封筒の中には、古ぼけたフロッピーディスクのような物体と、父の名前が手書きで刻まれた紙切れが入っていた。紙切れは擦り切れ、ところどころが破れている。
「君の父さんの?」マコトは訊いた。ニコラは小さくうなずく。彼の顎の線に、決意と苦味が入り混じっている。
「父さんは速度の実験に関わってた。だが、公開されている報告書とは違う動きがあった。俺はその一部を探してた。これが全てじゃない。だが、これを手に入れたとき、誰かに見られたんだ。俺は――」言葉を切った。彼の指先が震える。あの父の死が、彼の中ではまだ決着していない。
センが短く息を吐いた。「見せてくれ。だが、今は安全を最優先に動く。公に出すには証拠が揃ってない。追っての目もある。選択肢は二つだ。早くに証拠を分散して世に出すか、それとも確実な一次データを収集してから公に出すか」
「一次データを取りに行く」マコトは言った。声は低かったが揺るがなかった。彼はここまで来たら、証拠を突きつけて終わりにしたい気持ちが強かった。だが、彼は自分の能力の代償を知っている。風軌視は、あくまで「観測」に過ぎない。自分の体が高速で動き、強い風圧を受けているときにしか動作しない。静止して塔を覗いても、残留波は見えない。だから、彼自身が走るしかないのだ。しかし、走れば耳鳴りが増し、記憶の抜けが起きるリスクもある。さらには、観測した情報を処理して公表するためには、リコの技術とセンのコネが必要だ。
「俺が行く」ニコラが言った。だがその言葉はマコトの意図とぶつかった。「おまえは?」マコトが問うと、ニコラは俯いた。「父さんのせいで失ったものがある。俺に出来ることはあるはずだ。だが、あんたの風の視界が必要だ。俺は見張りを引きつける。あんたはとにかく見てくれ」
二人の間に微かな緊張が走る。ニコラは自分の速度力を、マコトは自分の風軌視を、互いに補い合う提案をしているのだ。だがマコトは自分が高速で走れば耳鳴りで判断力を失うかもしれないことを忘れてはいなかった。そこでセンが割って入った。
「分担して動く。ニコラは南側を引き、マコトは北側の小路から突入する。リコは中継端末でデータを受け、私が情報を外に流す。アマネは見張りの有無を逐次報せろ。もし異常があったら、直ちに撤退する。それと──」彼は全員の目を見回した。「感情的に突っ走るな。風軌視は感情で歪む。マコト、君は短期的な怒りや恐怖を抑えられるか?」
マコトは静かにうなずいた。彼は事故以降、自分の恐怖が視界を乱すことを知っている。感情が高まると、線はねじれ、渦は大きな恐怖の塊に見えてしまう。今回は、守るべきものがある。リコの顔、低層住民の暮らし、ニコラの父の記憶。それらを守るためなら、彼は己を律しなければならない。
「俺は制御する」マコトは言った。「敵意に飲まれない。見たものをリコへ送る。処理は彼女に任せる」
リコは小さく笑って、しかし険しい目で返した。「それが仕事。使い古した言葉だけど、データは嘘をつかないわ。あなたは見る。私は繋げる。センは動かす。アマネは掻き集める。ニコラは……父さんのために走るのね」
ニコラは唇を噛み、短く応じた。「ああ」
準備は速やかに進んだ。センは外で最小限の連絡網を回し、アマネは市場の見張りを一本化する。リコは改造した小型送信機を抱え、端末のバッテリーを幾重にも積んでいる。古い計器片を模した補助センサーも持ち込む。これがあれば、マコトが見た風の線のパターンを数値化し、リコが局の通信帯と突き合わせる