摩天楼の空中競技者

摩天楼の空中競技者 第3話「第2章」

リコの作業台は、いつもより静かだった。セピア色のランプが古い計器の真鍮を淡く照らし、油の匂いと布切れ、溶接の金属音が混ざって空気を満たす。彼女は端末の拡大映像を指でなぞり、マコトに見せるように画面を回した。そこに映るのは、倉庫で拾った小さな真鍮片の拡大図。浅い刻印が、何重にも擦れていた。

リコの作業台は、いつもより静かだった。セピア色のランプが古い計器の真鍮を淡く照らし、油の匂いと布切れ、溶接の金属音が混ざって空気を満たす。彼女は端末の拡大映像を指でなぞり、マコトに見せるように画面を回した。そこに映るのは、倉庫で拾った小さな真鍮片の拡大図。浅い刻印が、何重にも擦れていた。

「これ、製造刻印だよね?」リコの声は低いが、確信を含んでいた。「単なる部品の刻印じゃない。古い種類の機器に付けられてた年式と、局の前身っぽいシリアルが残ってる」

マコトは椅子にもたれ、耳の奥でまた小さな金属音を聞いた。風軌視を使った直後の耳鳴りは、まだ消えない。だが画面に映る刻印に、自分の視る渦の線が重なって見える気がした。渦はいつも、同じ型を作って現れる。偶然ではない──そう思わせる線だった。

「局の前身?」マコトが訊くと、リコは端末を操作して古い資料庫にアクセスした。ネットワークは断片的で、隠されているデータは消去の痕跡を残していたが、断片同士を繋げれば線は見えてくる。やがて、画面に古い組織名の断片と、それに対応する製造番号が一致した。

「ここだ」リコが指を突いた。「『大気調律局』の前身、――名前は変わってる。でもシリアルは残ってる。刻印のパターンと一致するの。消された形跡もあるけど、消し切れてない。誰かが手を入れたんだ」

マコトの視界に、映像で見たあの小さな渦の点が浮かぶ。倉庫の地図で重なっていた位置と、今日落ちた場所が同じ座標で結ばれている。それは単なる偶然ではありえない線の重なりだった。

裏口から物音がして、センが入ってきた。元策略家らしい渋い顔をして、ポケットから紙の束を取り出す。彼の情報網は、広告屋や古い役人、泥縄の記者たちを通じてまだ息をしていた。彼は束を机に投げ置き、リコの端末に映るシリアルと照合した。

「十年前の行政記録に、この番号の断片がある」センは低く言い、紙の端を指で撫でる。「正式な保存記録じゃない。移動中に消えかけたログの断片だ。だが一致する。局が当時、いくつかの送風機のプロトタイプを都市内で試験的に稼働させていた痕跡がある」

「試験?」マコトの胸がざわついた。試験という言葉は、競技場の安全や市民の通行のための名目を持ちつつ、実際には都市全体を実験場にする可能性を含む。彼が転倒したあの日、観客席の一部が一瞬視線を逸らした意味が、じわりと腑に落ちる。

センは更に続けた。「しかも、そのログの一部は――消去の痕跡がある。誰かがデータを改竄しようとしていた。公的に出すにはまずいものだ」

ピットの空気が変わる。冷たい現実がじわじわと染み出してくる。クラブの重役が立ち入ったら、この話はすぐに上層へ吸い上げられるだろう。だが上層に吸い上げられると、証拠は消えるか、切り取られて正体を隠される。センの目が険しくなる。

「俺たちで動かなきゃならない」彼は言った。「このまま表に出しても潰される。内部で手を回せる奴らを当たる。アマネから浮遊層の連絡網を借りる。ニコラにも触れてみる──奴ぁ情報にはうるさい」

その名前を聞いた瞬間、リコの肩が小さく震えた。ニコラ・ヴァン。切れ者のスピードスターは、今日もクラブの周りを軽く噂として飛び回っている。彼は表向きはライバルだが、都市の裏事情に通じているところがあった。だが同時に、彼の出自と家族史は複雑だ。彼の父の死が、速度追求の裏にあるものを示唆していることは、まだ公にされていない。

そのとき、ドアの隙間からニコラが顔を出した。いつも通り白いヘアバンドが光る。彼は肩を回しながら笑ってみせたが、笑いの奥に何かがちらりと見えた。

「お、集会か。俺の贈り物は情報だ。セレストがあそこに目をつけたってさ。市が大々的な安全宣言を打つ前に、先手を打つつもりなんだろう」

その短い一言が、机の上の空気を一瞬で凍らせた。セレスト・エンジニアリング——市の気象調律装置の大口スポンサーであり、公共と私企業のあいだに位置する、あのセレストだ。ニコラは言葉を続けた。

「だが、何か妙な動きもある。市の監視が増えてる。カメラの角度が変わってるって、既にお前らも気づいてるだろ? 俺の奴隷みたいなファン層があちこちで映像を上げてるから、その中の不自然な処理を見つけただけだ。詳しくは後で持ってくよ」

ニコラの言い方は冷ややかで、どこかよそよそしい。だがそこには確かな情報の匂いが含まれていた。マコトは彼の瞳を見た。ニコラの中にも──業としての競技者の冷徹さの裏に、過去の影がある。それがいつか味方になる可能性も、敵に転じる可能性も、同じくらい確かだった。

「公式に動く前に、データが必要だ」リコが静かに言った。「刻印とログの一致は始まりに過ぎない。残留波の分布図を掴まないと、どの地点が危ないか分からない。マコト、あんたが走るとき、映像を全部録って。風の線を観測しながら、その波形をセンサーで落とすのよ」

マコトの胸に、新しい決意が燻り始める。復活のためのレース、という表向きの目的の背後に、もうひとつの目的がくっついている。真相を突き止めること。事故の原因を暴くこと。彼は息を吸い、ローラーの軽い感触を足裏に呼び戻す。

だが選択には代償が付きまとった。リコは手際よく、彼の腕に改造したセンサーを巻きつける。その装置は、風軌視で見える線を物理的波形に落とし込む試作品だ。リコは試験で幾度も夜を徹し、耳鳴りと戦いながら回路を組んだ。

「これで、あなたが見た線の残留波形をデジタルに落とせる。だが覚えておいて。条件は変わらない。あんたの能力は『動いているとき』、そして『高速の風圧下』でしか働かない。静止しても、ゆっくり走っても見えない。使い続ければ耳鳴りは強まる。風酔いで動けなくなることもある。ひどければ、数分間の記憶欠落もあり得る」

マコトはセンサーの冷たさを押し返すように、腕を握りしめる。リコの言葉は緊張の弦をさらに強く引く。風軌視は観測に特化した力だ。誰かの風を直接操作することはできない。彼の役割は、見ることと、それを基に自身のローラーテクニックで回避や誘導を行うことに限定される。だがその観測が、チームの行動を決める鍵にもなる。

「分かってる」彼は短く答えた。「観測する。それに従って走る。でも無茶はしない。リコが止めたら……止める」

リコは彼の額にそっと触れ、短く笑ったように見せた。「約束して」

その約束は、重く、しかしどこか温かかった。センは書類の束をもう一度確認し、外部の圧力への対処を考える表情を見せた。チームとして動くのか、個人として走るのか。クラブ内に亀裂が走りつつあるのも、否定できない現実だった。重役たちは沈黙している。表向きは安全第一を唱えつつ、金が絡めば態度は変わる。だが今は、それを横に置いておくしかない。

「ひとつ、覚えておけ」センが低く言った。「この件が公になると、セレストは動く。市も体面を守りに来る。お前らの動線は監視されるだろう。レースでデータを取る──それは監視の容易な方法だ。だが同時に、俺たちが既にまとめている情報を隠蔽する機会を相手にも与えてしまう。だからなおさら、精密でなければならない」

彼の言葉に、マコトはうなずいた。風軌視は彼だけ