摩天楼の空中競技者 第10話「第9章」
朝焼けが摩天楼のガラスを薄く染めるころ、スタジアム・アエラの外周には既に人の波の予感が満ちていた。決勝の当日。ネオンの残り香と帯電した空気が交じり合い、浮遊広告列が朝の光の中で緩く揺れる。市もスポンサーも、そして紡の影も――すべてがこの空間に注がれる。
朝焼けが摩天楼のガラスを薄く染めるころ、スタジアム・アエラの外周には既に人の波の予感が満ちていた。決勝の当日。ネオンの残り香と帯電した空気が交じり合い、浮遊広告列が朝の光の中で緩く揺れる。市もスポンサーも、そして紡の影も――すべてがこの空間に注がれる。
「接続良好。放送帯域、検査済み」リコは小さな作業台に腰を下ろし、青色の光る端末の波形を睨み続けていた。油と布と古い計器の匂いが彼女の周囲に残り、指先はすでに幾分震えている。彼女の作った中継端末は、マコトの風軌視が拾う「線」をリアルタイムでデジタル変換し、院外のサーバーまで三重にバックアップを取る仕様になっていた。だがその処理能力にも限界がある。彼らが持つのは「存在の証拠」だった。決定打に足りるには、中枢の生ログが必要だ――たった一か所、塔のコアに眠るデータ。
「センからの伝言だ。セントラル側の監視が強化される。奴ら、正面から来ようとしてる」アマネが浮遊マーケットの簡易通信で報せる。彼女の声はいつもの軽やかさを微かに欠いていた。低層の市場は既に、今朝の観衆の流れを計算していた。セン・ルイは冷静に言葉を紡ぐ。「我々は舞台そのものを利用する。だが舞台は誰のものでもある。監視も監視の網の一部だ。ここからは一手一手が命綱になる」
その時、スタジアムの裏通路を駆け抜ける足音が一つ。ニコラだ。彼の表情は泥のように暗く、普段の自信は薄れていた。マコトはその顔を見ると、瞬間的に胸の奥が締め付けられた。昨夜の一件が尾を引いている――決勝の前夜、誰かが装置点検用の配線を切り、監視ログを改竄しようとした。発見され修復されたが、現場で「情報を持ち出す」ニコラの姿が一部のスタッフに目撃され、噂は瞬く間に広がった。裏切り、あるいは密約。リーグ関係者の視線は熱を帯び、チームの信用は一触即発だ。
「お前、どういうつもりだった?」マコトはニコラに詰め寄る。空中ローラー用の滑走路の風が二人の間を軽く撫で、ネオンが二人の顔を冷たく照らした。
ニコラは一度息を吸ってから、声を低くした。「見られたんだな。だが、誤解だ。俺は・・・父さんのファイルを探してた。あの塔の監視ログの一部を、俺だけのために盗ったわけじゃない。父さんが最後に送った断片がそこにある。もし公に出せば、父さんの名誉が・・・それに、我々に必要な鍵にもなるかもしれないって思ったんだ」
マコトの胸に、小さな氷片のように刺さる言葉。ニコラの父は速度実験で亡くなった、と噂されていた。それが局の隠蔽と関係があるのではないかという疑念は、ニコラの行動理由としてもっともらしく聞こえた。だが目撃者は「物を持ち出していた」とだけ語る。スパイ行為と誤解されれば、ニコラはこの場で終わる。マコトは仲間の裏切りを許す余白がない時期だと知っていた。
「なら、それを見せろ。今すぐにだ」リコが割り込む。端末の画面をマコトの前に差し出す。彼女の目は真っ直ぐで、感情の振幅は低い。信頼はデータで測るしかないと知っているからだ。
ニコラは微かに肩を震わせ、端末を取り出した。そこに残るログの断片は、確かに父の名義で送信された短いテキストと、不可解な周波数の記録を含んでいた。送信は途中で途切れていて、最後に「────聞くな」とだけ残されている。リコが波形を拡大すると、そこにマコトの耳が反応する特有の高調波が含まれていた。見覚えのある、今まで何度もマコトの耳を刺した音だ。
「俺は、父さんのために動いてる。だが、もしこれがリーグや局に渡れば、父さんを消した連中の口実にされる。だから一度だけ、俺は独断でデータを取った。誰にもやらせなかった」ニコラの声に酔ったような青さが混じる。彼は目を閉じ、父の最後の映像を追っているかのようだった。マコトはその告白を見て、信じるべきかどうかの線を歩く。
「裏切りの疑いは払拭できない」センが冷たく割り込む。「我々はチームだ、だが公衆の前では疑念一つで計画は瓦解する。ニコラ、君が持ち込むものは我々の資産だ。独断で動けば、我々全員が吹き飛ぶ」
ニコラは短く頭を下げ、だが目は負けていなかった。「分かってる。だが、俺は父の名誉を取り戻したい。俺のやり方が最善かは分からない。だが、ここで立ち竦むよりはましだ」
その時、外部から警告が入る。アマネの声が無線に割って入り、緊張の波を走らせた。「裏手の風制御ユニットが再度異常挙動。セキュリティが差し戻したが、配線に微細な熱反応がある。誰かが夜中に内部へアクセスした形跡――しかも、装置に未知の残留波生成器を仕込もうとした痕跡だ」
言葉の意味が全員の顔に落ちる。紡は単に証拠を探るのではない。彼らは舞台を使って、実働に出ようとしている。公衆の大目に晒す「デモンストレーション」と称して、装置を暴走させるかもしれない。あるいは逆に、暴走を装って市当局を手中に落とすための演技かもしれない。どちらにせよ、決勝はすでに単なる競技ではなくなっている。
「彼らは直接仕掛けてくる」リコの声が冷える。「我々が持ってるのは塔のコアから拾った断片だけ。だが、決勝の夜にあいつらが装置を稼動させれば、市民の安全が真っ先に危うくなる」
「だからこそ、利用するんだ」センは鋭く言った。「決勝を、奴らの動きを暴く舞台にする。だが、我々の演出ミスは許されない。マコト、君が出る。君の風軌視で残留パターンを全部拾え。リコはそれを即時変換して放送帯に流す。ニコラは父さんの断片をその直前で公開する。だが一つ条件がある。君は感情を持ち込むな。怒りは視像を歪める」
マコトは自分の胸の奥で、耳鳴りがすでに小さくざわめいているのを感じた。昨夜の風酔いの影は消えない。記憶の断片が脆くなっている。だが彼の目にはもう一つの計算があった。風軌視は「観測」しかできない。彼は操れない。だが観測した軌跡を、今こそ証拠として晒すことで、操作の実態を白日の元に曝せるかもしれない。代償は――またしても耳鳴りと風酔い、記憶欠落だ。誰かの命がかかるリスクを、彼はどう背負うのか。
「覚悟はあるか?」リコが言う。彼女は既に準備を終え、装置の最後のチェックリストを読み上げている。彼女の声は震えない。マコトの返事は短い。「ある。だが条件がある。ニコラ、夜中に何をした? 本当に父さんのためだけか、それとも他に目的があったんじゃないのか」
ニコラはしばらく黙った。やがて、小さく笑ってから言った。「俺がやったのは、父さんのデータだけじゃない。塔の監視録から、局が特定の選手群に対して周波数テストを行っている記録を引っ張り出した。父さんが消されたのは、その実験が失敗したからだ。俺は・・・それを公にしたかった。だが見られたとき、奴らの一人がそこにいた。追っ手の影は消せない。だから疑念が生まれた」
「それで、君はどこに立つ?」センの問いに、ニコラははっきりと答えた。「ここに立つ。父さんのためにも、そして・・・俺は速さで償う。速さで、奴らの作為を壊す」
その瞬間、マコトの中で何かが納まった。ニコラの言葉は戦士の誓いのように聞こえた。過去の因縁は根深い。だが今この瞬間に必要なのは、疑念を越えた協働だ。マコトは短く頷いた。信じることと信じないことの線引きは、今はなし崩しに