夢見るカセットの歌手

夢見るカセットの歌手 第19話「第17章」

雨が天井を打つ音が、倉庫の静けさの中で何度も反芻された。金属に落ちた一粒が跳ね、薄く、遠くへ去る。暗がりの縁に座った天音は、その湿った音を現実の時間の合図として受け取っていた。胸の中の譜面は風化した紙片のように薄くなり、彼女の唇の裏側で震えているだけだった。

雨が天井を打つ音が、倉庫の静けさの中で何度も反芻された。金属に落ちた一粒が跳ね、薄く、遠くへ去る。暗がりの縁に座った天音は、その湿った音を現実の時間の合図として受け取っていた。胸の中の譜面は風化した紙片のように薄くなり、彼女の唇の裏側で震えているだけだった。

「もっと、短く、要点だけだ」蓮見の声が、外の小さなコンソール越しに震えた。タッチスクリーンの波形は断続的に上下し、周期的なビープは今や逆向きの振幅を帯びていた。蓮見は指先に汗をにじませ、位相の補正を続ける。彼の額の血管がぴくりと動くたびに、天音の夢の深さに届く時間がほんの少し伸びる。

「始めるよ」天音は自分に言い聞かせるように、空気を噛んだ。声に乗せるのは、祖母の蔵で見つけた譜面の行列。断片だった一行一行を、連なった物語にするための儀式。けれど彼女は既に知っている——歌は消費で、消費した分だけ、彼女の中から何かが削り取られるのだと。

夢の最深部では、残響体が異形の円環を描き、そこに寄せられた無数の扉が開閉を繰り返していた。扉の向こうには見知らぬ朝焼け、朧げな母の笑い、半分消えかけた自分の名前が詰まっている。天音はその扉を一つずつ閉じさせるため、主題の核を自分の口でなぞった。

最初の一行目を吐き出すと、遠い遊び場の匂いがすっと霧散した。芝の湿り、砂のざらつき、ぶらんこの軋み。手触りは消え、残ったのは輪郭だけだ。声を出すたびに胸の底が冷たくなる。だが同時に、倉庫の外から返ってくる反応があった。街角の老婦人の夢が戻り、目をぱちりと開ける。音楽学生の指先は楽譜をつかみ直し、忘却の裂け目がふさがっていくのを天音は感じた。

「いい、その調子、天音」真白が夢の端から声を寄せる。彼女の声はいつもどこか冷たく、しかし確信に満ちていた。真白は残響体の注意を逸らすために、異なる旋律の断片を投げ入れている。彼女の手が空を切るたびに、残響体の表皮にひびが入ったように見えた。真白の方法は危うい代わりに効果的で、天音が主題を刻む時間を稼いだ。

硝は現実で、古いラジカセのプラスチックに指を擦りつけていた。血が滲む掌で、彼は一定のリズムを作る。擦れる音は彼にとって何でもない習慣だったが、それは天音にとって命綱になっていた。硝の指先がテープの内部を撫でるように生む微かな摩擦音が、夢の中で「帰還の手掛かり」として機能している。彼は唾を飲み込み、声を震わさせずに名を呼んだ。

「天音! 聞こえてるか? 天音!」

呼びかけは短く、繰り返しだけれど、そこに切実さが混じっている。天音はその音を探し当てると、それだけで胸の中の小さな灯がふうっと灯るのを感じた。名前を呼ばれることの重さを、彼女は今程までに知らなかった。

二行目、三行目と歌が進む。譜面の行がひとつ歌われるごとに、天音の中の記憶が段階的に磨耗していった。最初は遊び場の匂い、ついで母の笑い、そして幼い頃にいつも着ていた赤いセーターの色彩。色は薄れ、音の記憶も曖昧になっていく。言葉そのものが揺らぎ始めたのは、四行目を越えたあたりからだった。語尾を結ぶ小さな助詞が曖昧になり、彼女は一瞬、自分の名前の語感まで失いかけた。

「戻ってくるんだ。位相、合わせろ!」蓮見が外で叫ぶ。タッチスクリーンに流れるビープのパターンが、ここ数秒で急速に変化した。蓮見は位相を反転させ、逆流させるようにビープの波形を押し戻す。彼の指が一度滑ると、夢の中で残響体の動きが鋭くなり、天音の周りの闇が濁りを帯びる。真白が咬みつくように声を発し、残響体が注意を切り替える瞬間を作る。硝は擦れる音を欠かさない。

だが逆流トリガーの効力は永続しない。蓮見の表情がひきつる。機器は過熱し始め、スクリーンの角に赤い警告が点滅する。電力は限られ、位相が完全に一致するのはゼロとも言えるほど短い。蓮見は過去の失敗を思い出し、指先に渾身の力を込めた。「今度こそ、やり切る」——彼はいかにも科学者らしく呟いたが、その声には祈りに似た震えが混じっていた。

天音は歌を削る。情景の描写を切り落とし、ただ主題の核だけを叩きつけるように口にする。副題や間奏の余白を拒み、要点だけをざくりと切り取る。短く、強く、しかし薄く。歌うほどに、彼女の世界の一部が溶けていった。声が枯れてきて、息が浅くなる。舌がもつれ、言葉が断片的に欠ける。彼女はそれを見て、喉の奥の何かが冷たく収縮するのを覚えた。

「硝、速さを合わせて。もう少しだけ!」真白が叫ぶ。彼女は夢の中で天音の声が消えないよう、自分の断片を貸し与えていた。真白の助けは天音が直接受け容れられない痛みをやわらげるためのものだった。彼女は自分のやり方を天音に重ねて、代価の形を少しでも分散させようとしている。二人の声が絡むと、夢は一瞬複雑な和音を奏で、残響体の体表にまた一つの亀裂が入った。

倉庫の入口で、小さな足音が響いた。醒夢連合の残党が何人か突入してきたのだ。彼らは装置を守ろうと躍起になり、銃器のような音が床に反射する。だがココロはどこかで笛を吹き、通路の暗がりから別の音を差し込んだ。それは古いジャズの一節で、意外にも残響の注意を散らす効果があった。連合の残党は混乱する。硝は血をこらえながらも立ち上がり、古い工具で彼らの接近を阻む。人間と技術と夢の三すくみがそこで交錯した。

「彼らを止めろ、装置に近づけるな!」蓮見が命じる。真白は倉庫を跳び回り、踏み付け、配線を切る。人間の肉体的暴力は、どこかで理性のはざまを切り裂く。けれど最も破壊的だったのは、蓮見が逆流させた位相の一瞬で得た“穴”だった。蓮見はその穴を夢へと向け、そこで天音が歌を刻み続ける隙間を作り出そうとしている。時間は短く、労力は巨大だ。

天音は次の行を歌い始めた。胸の中で舌先を押し付けるように、最後の語句を紡ぐ。言葉が消えるごとに、彼女の内側の景色がさらに白みを帯びる。幼い友の顔はいつの間にか輪郭だけになり、母の笑いは再生機のようにかすれた。記憶の破片が彼女の手から零れ、代わりに誰かの夢が静かに岸へ戻っていく。天音はその交換を拒むことはできなかった。選ぶのではなく、消費する。代償はすでに決まっていた。

硝の擦れる音はゆらぐことなく続く。彼の呼びかけは短い断片となって夢の空間に射し込み、天音はそれを探り当てる。名を呼ばれるたびに、彼女の中の灯がかろうじて宿る。だが彼の手は震え、リズムが乱れる瞬間が増えた。血と泥にまみれた掌は、やがて力を失うように見えた。

「硝、頼む、持って!」蓮見が外から叫ぶ。彼の声は必死で、しかし冷静さを失ってはいなかった。スクリーンの警告がひとつ、またひとつと点滅していく。機器の温度計は赤に達し、電力供給が不安定を告げる。蓮見は最後の補正を入れようとするが、それにはまた別の代償があった。位相を維持するために、装置のブレードヒューズを犠牲にしなければならない。彼は一瞬躊躇したが、指先を装置の基板に押し当てた。

その瞬間、倉庫全体がひとつの高い音で震えた。周期ビープの逆流が制御回路を撹乱し、装置は苦しげに喘いだ。蓮見の操作が成功したのか、それとも機器が限界を迎えただけなのか判然としない。だが確かなことがひとつあった。残響体の形が崩れ、そこに頼ら