夢見るカセットの歌手 第18話「第16章」
闇の淵は眠りを吸い尽くすように深かった。天音の体は冷たく、意識の輪郭だけが糸のように残っていた。蔵の扉、祖母の襖、幼い日の笑い声――見慣れた欠片が散らばる夢の床を彼女は転がる。だが欠け落ちた言葉の空白があちこちにぽっかりと開き、その口に何か黒いひだが潜んでいる。残響体だ。忘却が凝り固まった塊が、記憶の縁を啜る音を立てていた。
闇の淵は眠りを吸い尽くすように深かった。天音の体は冷たく、意識の輪郭だけが糸のように残っていた。蔵の扉、祖母の襖、幼い日の笑い声――見慣れた欠片が散らばる夢の床を彼女は転がる。だが欠け落ちた言葉の空白があちこちにぽっかりと開き、その口に何か黒いひだが潜んでいる。残響体だ。忘却が凝り固まった塊が、記憶の縁を啜る音を立てていた。
「天音、名前を呼ぶぞ!」
硝の声が遠く、しかし確かに届いた。彼の擦れる音は夢の外を刻むリズムになり、天音の胸の奥で小さな灯りを揺らす。だがその灯りは薄く、歌の主題は裂け、彼女が胸に抱いていた景色はもう既に縁がぼやけていた。歌を続けるたび、匂いが、手触りが、語彙が剥がれていく。代償は実際に、凶暴に、彼女を食べていった。
「ここは──どこ?」天音の声は夢の中でも紙切れのように薄く、言葉は輪郭を失っていた。残響体は応えず、代わりに欠けた言葉の断片を返すように、彼女の過去に似せた風景を差し出した。祖母が編んだ毛糸のカゴ、硝と取り替えた古いラジカセ、ココロの店の看板の剥げた文字。どれもが半透明で、触れれば溶ける。
天音は手を伸ばした。掌は空気を掻くだけで、そこにあるはずの言葉が指先で滑り落ちるのを感じた。残響体は笑うように音を立て、次いで申し出る。断片と引き換えに、少しずつ――「与える」ことを。与えると何が起こるかは、天音は知っている。主題を分配すれば、その台で眠る人々の夢は癒される。だが自分の中の主題は薄くなり、戻るための糸が細くなる。
「あなた、私の歌の主題を返してくれる?」残響体は言葉を使わなかったが、余響のような声で彼女に語りかけた。応じれば戻れないかもしれない。拒めば誰かが傷つくかもしれない。選択は、ここまで来てなお残酷だった。
夢の奥底に、譜面の一行が浮かんだ。先に見つけた断片が光を帯び、残りの行と結びつき始める。あの紙切れはただの紙ではなかった。祖母の蔵で拾ったその一行が、今ここで旋律となり、天音の胸で鳴り出す。だが旋律の輪郭を保持するたびに、彼女の記憶の端が白く滲む。譜面は救いであると同時に、刃でもあった。
「天音!」硝の擦れる音が拍を変えて叫ぶ。現実側では硝が膝を付き、血の滲む手でラジカセの外装を掴んでいた。指先の擦れは彼が編み出したアンカーの律動だ。蓮見が操作する逆流トリガーの位相と、真白が内部に差し入れた偽主題の乱れが、外と内を細い糸で繋いでいる。天音はその糸を頼りにするしかない。
彼女は決断した。主題を完全に保持することは、自分一人の安全であって、被害に遭った夢たちを放置することになる。前世の繰り返しを止めるためにも、今ここで誰かを救う必要がある。天音は狭い残りの声を集め、最短で最大の効果を生む形で歌うことにした。分配という選択だ。だがその都度、何かを失うことを覚悟して。
最初の音節を放つと、夢は震えた。天音の声は残響体の表皮に擦り付けられ、欠片がほろりと落ちる。夢の景色が一瞬だけ清澄となり、遠い誰かの涙の形が揺れた。彼女はそれが誰の夢かを特定できないまま、二つ目の音節を吐き出す。音は薄く、言葉の縁がぼやけながらも確かに届く。どこかの病室の窓が開き、呼吸のリズムが整う。画家の色彩が微かに戻り、彼の手がパレットに触れた。だが代わりに、天音の内側の一つの匂いが消えた。ブランコの木の擦れる匂い。母の台所の湯気の輪郭。
「やめないで、天音!」硝の声は掠れ、しかし擦れる音は切れない。彼は必死にアンカーのパターンを保った。指先の擦れが夢の中の手触りとなり、天音の中で小さな紐になった。紐は細く、切れやすい。彼女はその紐の存在に感謝しながら、さらに歌う。
真白の声が遠くで重なった。彼女は偽主題を差し出して残響体の注意を逸らし、天音が本当に必要な主題を分配する時間を稼いでいる。その偽主題は粗削りで、忘却を刺激しない形で残響に媚びる。真白の方法は天音の方法と相いれないが、今は役に立っている。二人の声が絡むと、夢は一瞬複雑な和音を奏で、残響体の体表にひびが入るように見えた。
蓮見は外で叫んでいる。反響装置のタッチスクリーンには周期のビープが走り、彼は位相を微調し続けていた。逆流トリガーの位相が夢の奥へと拡がるたび、残響体の動きが鈍る。だがそれは永久ではない。装置の電力は限られ、位相の一致は一瞬のものに過ぎない。蓮見は汗を拭いながら、それでも食い下がる。彼は過去の失敗を噛み締め、今度は成功させると手元で祈った。
「もっと、短く、要点だけ!」天音は自分に言い聞かせるように、歌の各行を削り取った。副題や情景描写を切り落とし、主題の核だけを声に宿らせる。声は鋭く、しかし薄くなっていく。歌の一行ごとに、彼女の中のある記憶が霧散した。最初は遠い遊び場の匂い、次に幼い日の母の笑い、それから名前と呼びかけの語尾が一語ずつ曖昧になる。失うほどに、誰かの夢は岸辺へと戻されていった。
夢の中に幾つもの扉が開いたり閉じたりした。街角の老婦人は夢から起き上がり、目をぱちりと開ける。音楽学生の指は楽譜をつかみ直し、忘れていた旋律を一瞬取り戻す。ココロの店に出入りしていた少年は、もう一度母の声を思い出し、泣き止んだ。天音はそれを感じ、胸の奥が温かくなった。しかし温かさはすぐに冷える。主題の輪郭が一つ欠けるたび、胸の中の自分の像が薄くなる。
「まだ行ける。位相が合えば、もう一度時間が──」蓮見の声が夢の隙間で微かに震えた。彼の操作が成功すると、残響体の行動がわずかに鈍った。真白はその隙を突いて、残響体の注意を別の幻影へと押しやる。硝は血を滲ませながらも、擦れる音の速度を保ち、呼びかけ続ける。三人の協力が、天音の歌を支えた。
が、その一瞬が後にはもう無いことを天音は知っている。歌は消費であり、再生はない。彼女は次の音を出す前に、自分の中で最後の計算をした。誰を、どれだけ救うのか。どの記憶を捨てるのか。答えは簡潔で、しかし残酷だった。彼女は、なるべく多く、なるべく短く。自分の名前の綴りを最後の最後まで守るつもりでいたが、現実は最後の一行を残して彼女からもぎ取ろうとする。
天音は最後の節を吐き出した。譜面の最終行が胸で鳴り、彼女はそれを自分の現在へ刻もうとした。だが刻印の代償は大きく、言葉一つがゆっくりと消える。まずは幼い日の細かな出来事、次いで遊び相手の顔の輪郭。そして、喉元に座していた小さな決まり文句が薄れていった。声はかすれ、息は浅くなる。硝の擦れる音はその弱くなった声を追い、彼は名を叫び続けた。
「天音! 戻れ、今すぐ戻れ!」
硝の叫びは皮膚を切るように鋭く、彼の指は震えながらもリズムを失わない。天音は硝の声を掴まえ、そこに自分の最後の意識を結びつけた。残響体がひるんだ瞬間、彼女は自分が何かを歌い切った感触を得た。しかしそれと同時に、自分の名を確かに持っているかどうかが怪しくなった。呼びかける言葉はまだここにあると信じたかったが、輪郭は紙のようにめくれていった。
倉庫の外側で装置が軋む音を立てる。逆流トリガーが最後の補正を完了し、周期ビープの逆流が制御回路を撹乱している。その隙に真白が装置の基板を蹴り、配線を引き千切る。機械の唸りが次第に遠ざかり、静寂が倉庫を満た