ビデオ怪獣館の館主 第16話「第14章」
港からの潮風が倉庫の鉄扉を薄く震わせる夜だった。潮の匂いと古い糊の匂いが混ざった空気の中で、昴は自分の掌に残る小さな穴を確かめるように、写真の縁をなぞっていた。そこには母の笑い声のかけらがあったはずだ。だが指先に触れても、その輪郭はふわりと薄く、砂のように指の間から零れ落ちる。
港からの潮風が倉庫の鉄扉を薄く震わせる夜だった。潮の匂いと古い糊の匂いが混ざった空気の中で、昴は自分の掌に残る小さな穴を確かめるように、写真の縁をなぞっていた。そこには母の笑い声のかけらがあったはずだ。だが指先に触れても、その輪郭はふわりと薄く、砂のように指の間から零れ落ちる。
「――これは、繋ぐしかないのね」
春子の声は穏やかだが確信に満ちていた。彼女は古いテーブルの上にマイクロカセットレコーダーを置き、古いアルバムを開いたまま、住民の語りをまとめるための用紙を整えている。こたろうは隣で、何度も同じページを見返しては塞いだ目をぱちぱちさせている。白い犬はアルバムの側に伏せて、鼻先で紙の匂いを確かめるように小さく鼻を鳴らした。
「今日は三人の年寄りが来てくれるって」春子が言う。「山車の綱の結び方、露店の配置、祭りで誰が太鼓を叩いたか。声を全部記録すれば、写真の顔が薄れても、そのときの状況や匂い、順序は残せる。映写は非常手段。今は語りで埋めるのよ」
昴は煙草のように冷めた手のひらを見つめた。語りは熱を持つ。誰かが言葉を吐くと、他の誰かの記憶が火種のように灯る。アルバムを開いた子供が、見開いた黒白の顔を指差して「誰?」と訊けば、隣の商店主が笑って「それはね、浜田のおばあちゃんよ。いつも飴をくれたの」と返す。飴の味、夏の風、夜店の油の匂い――語りは欠けた輪郭を埋める。
「映写を使えば一瞬で戻せるかもしれない」こたろうがつぶやく。「でも、いつも誰かのページが薄くなるんだ。僕の記憶も、また抜けるのかな」
「抜ける」春子が即座に答えた。「使えば使うほど、どこかが薄くなる。それを私たちはもう知っている。だから、ここでは映写は使わない。語りを撮る。文字にして残す。そうすれば、誰かの顔は戻らなくても、その存在の意味は残る」
昴は小さな声で笑った。自分が長いあいだ映写の光だけに頼ってきたことを思うと、恥ずかしくなる。光は簡潔で、わかりやすい救いをくれた。だがそれは同時に代償を連れてきた。母の夕景の一枚――港の堤防に並んだ二つの影――その一景が、初めて投影を行ったときにすり抜けていったのを、昴は忘れられなかった。
夜の会はゆっくりと進む。海風が倉庫の窓を鳴らし、年配の男性が喋るたびに、春子がペンを走らせる。年寄りの声はしわがれているが、そこにしかない確実さを宿していた。「あの年の夜祭りは台風が来たんだ。だけど、祭りを止めなかった。屋台の笛が雨粒で溶けるみたいに鳴って……」語りが続くと、こたろうの胸が震える。彼は表情を失った数カ所の記憶を、耳で受けた情報によって一つずつ取り戻すようにしていた。だがその回復は刹那的で、しばらくするとまた霧散する。
会の終わりに、白い犬がアルバムから立ち上がり、静かに立ち去るように歩き出した。皆が気づくと、犬は倉庫の奥の棚の前で立ち止まった。棚には古い箱が積んであり、埃をかぶった写真袋が無造作に置かれている。犬はその中の一冊を鼻で押し開き、硬い頁の端に体をすり寄せる。犬の瞳は何かを見つめているように光った。
「また、あの子か」こたろうが小さく笑った。「行こう、見せて」
昴は犬の後を追った。頁をめくると、そこには見覚えのある一枚の写真があった。母と、まだ幼い自分が並んでいる。だが写真の右端に──薄く、しかし確かに──黒い焦げ跡のような紋様が刷り込まれていた。焦げ紋は、これまで何度も彼らを惑わせた記号だ。倉庫の古いポスターにも、失われた看板の角にも、北の港の壁にも、いつのまにか現れていたその模様だ。
「これ……」昴の声が震えた。「ここにもあるのか」
春子が慎重に写真を引き出し、虫眼鏡を持って来た。焦げ紋の細いラインは写真の乳剤の層に刻まれており、よく見るとそれは単なる焦げではなく、規則的な刻印であるように見える。刻印の中に、細かな溝と点が走り、波形のような模様が混じっている。春子は顔をしかめると、驚いたように息を吐いた。
「この縁取り……フィルムのエッジにある刻印に似てる」春子が言った。「でも、写真にまで写り込むなんて。これ、何かと一緒に保管されてたんじゃないの?」
「誰かが、印を付けたのかもしれない」こたろうが言う。「でも誰が……」
白い犬がそのとき、棚の奥から硬い缶を一つ引っ掻き出した。小さなフィルム缶だ。表面の錆びたラベルにはかすれた文字と、見慣れた焦げ紋の小さな輪郭が消えかけていた。缶の中には、長い間押し込まれていたかのような短いフィルムの切れ端――未露光の断片が収まっていた。金属の冷たさが掌を通して伝わる。
「触らないで」春子がひとまず制した。「もしこれが未焼きのフィルムなら、露光させるまでは投影は起きない。でも、触るだけでも――調べるだけでも、慎重にね。映写しないで調べる方法はいくつかある。顕微鏡、光の当て方、ラボでの化学的解析。だけど露光だけは、最後の手段。それを忘れないで」
昴は缶を見つめながら、手に力を込めた。缶が微かに震えたように思えた。前と同じく――倉庫にあるあの小さな缶が振動した夜に、彼は断片的な幻像を見たことがある。笑い声、遠いラジオの雑音、初代館主の部屋の影。触れるたびに引き寄せられるのは危険だが、そこに答えがある可能性も否定できない。
「これ、どうする?」こたろうが訊く。顔には期待と恐れが混ざっていた。
「持ち帰って解析する」春子は即答した。「けれど、露光は絶対にさせない。私がラボで調べる。フレームの縁の波形と、写真の焦げ紋を照合する。もし一致するなら、これが初代からの何らかの手がかりだ。だけど、ここでやれることには限界がある。露光したら、代償が必要になる。昴、考えて」
昴は缶を掌の中で回す。冷たさが、かすかな温度の残滓に変わった瞬間、彼の中で切れていた何かが細く結びついたような感覚があった。母と並んだ写真の端にあった焦げ紋、北の倉庫のスプレー、そしてここにある未露光の断片。点が線になった。しかし、その線がどこへ続くのかは見えない。
「僕は……」昴の声は低かった。「僕は今、映写を使わない方法でやってみる。語りを集める。年寄りの話を全部書き出す。こたろうの記憶の欠落も、文字で補っていく。だけど、もし春子の解析でこれが初代のメッセージなら、俺たちはそれをどう扱うべきか――それは別の話だ」
春子は頷き、缶を慎重に布で包んでから彼に手渡した。「あなたが触っても大丈夫。だけど、倉庫に置いておくのはやめよう。外部の科学者に当たる前に、私たちで一次解析をする。顕微鏡で模様を撮影して、それを紙に写し取るの。それによって、露光せずとも図像の構成を読み取れるはずよ」
こたろうが顔を上げ、小さく笑った。「僕、手伝うよ。もしかしたら、写真を見て思い出すかもしれない。昨日、犬があのページに寄り添ったのは、偶然じゃない気がするんだ。犬は匂いで記憶を追う。僕たちも匂いじゃない方法で追えばいい」
昴は白い犬を見た。犬は静かに尾を振り、再びアルバムの隅へ戻っていった。犬の名は今でもたしかに「トモ」だが、こたろうが拾ってからの名ではなく、街の人々が昔から呼んできた「記憶のもとい」を期待させる名のように思える。
倉庫を出ると、夜は更に深くなっ