ビデオ怪獣館の館主

ビデオ怪獣館の館主 第1話「序章」

港の夜は、いつもどこかズレていた。高辻の海風は古い映画館の匂いを運ぶ――油と塩と、長い間巻き戻されていないセルロイドの匂いだ。漁火が揺れる湾の向こうでコンテナヤードのライトが瞬き、街灯は消え入りそうなネオンを何度も吐き出す。そんな風景の一角に、小さな四階建ての建物がひっそりと佇んでいた。正面には色あせた紙の柱看板。上には手描き風の文字で「ビデオ怪獣館」とあり、角の縁にいつの間にか焼け焦げたような紋様が繰り返し印刷されていた――焦げ紋。昴は鍵穴に指をかけ、その冷たさを感じながら息を吐いた。

港の夜は、いつもどこかズレていた。高辻の海風は古い映画館の匂いを運ぶ――油と塩と、長い間巻き戻されていないセルロイドの匂いだ。漁火が揺れる湾の向こうでコンテナヤードのライトが瞬き、街灯は消え入りそうなネオンを何度も吐き出す。そんな風景の一角に、小さな四階建ての建物がひっそりと佇んでいた。正面には色あせた紙の柱看板。上には手描き風の文字で「ビデオ怪獣館」とあり、角の縁にいつの間にか焼け焦げたような紋様が繰り返し印刷されていた――焦げ紋。昴は鍵穴に指をかけ、その冷たさを感じながら息を吐いた。

青柳昴、二十六歳。数年前に両親を失い、継ぐ者はいないはずの館を相続したのは彼だった。外観は昔のままでも、内部は時間に削られている。階段はぎしぎしと鳴り、ロビーのカウンターには古いチケットパンチと、紙製の怪獣ポスターが乱雑に積まれている。彼はそれらをひとつずつ撫でるように見て回した。指先に伝わるのは紙のざらつき、ノスタルジックな絵柄のインクの痕跡、そしてその端々に見える、あの焦げ紋だ。なぜかいつもそこにある。見逃せないほどに繰り返されている。

奥へ進むと、映写室の重たい戸が待っていた。扉には古びた真鍮の錠が掛かり、その錆びた輪に彼が差し込んだ鍵は、初代館主の形見のようにぴたりと噛み合った。戸が軋んで開く音は、遠いラジオのチューニング音と重なって、昴の頭の中で幼い記憶を引き起こす。夢の中で聞いたあの声――ところどころ聞き取れない古いアナログ放送のような音節。「光の糸を繋ぐ者よ…」その語りかけは、子どものときに何度も夢で聞いた。だが夢だと思っていたものが、今ここで現実の匂いと混じり合ったとき、昴の胸はぎくりとした。

映写室に差し込む一筋の月光が、埃を帯びた空気を粒子に分ける。机の上には重たい金具の映写機、スクリーンの裏には使い古されたフィルム缶がいくつも眠っていた。壁際の棚には、色褪せたノートが一冊だけ、紐で固く縛られている。帯に「初代館主ノート」と鉛筆で走り書きがあった。昴は手が震えるのを感じながらそのノートを開いた。ページの端には油のしみと、細かな走り書きが詰まっている。文字は震えているが、言葉は明快だった。

「映写の光は境界を開く。光の閾値を誤るな。輝度が一定を越えると映像は現実に干渉する。人間をそのまま投影するな。フィルムは記憶の素材である。取り出したいものを得るには、同じくらいの『忘却』を差し出すこと――これを忘れるな。」

ページの余白には小さな図が走り書きされていて、見覚えのある焦げ紋がそこにも描かれていた。印のように並んだ黒い円と、そこで交わる細い線。ノートの片隅に、初代館主の字で「光の糸を繋ぐ者」とだけ書かれている。それを読んだとたん、昴は子どものころに見た夢の感触がじわりと蘇る。あの男の声が、ノートの行間から漏れてくるようだった。けれど同時に、ノートは警告を忘れなかった。映写は救いにもなるが、代価を払う行為であると、くどいほどに。

棚の上のフィルム缶をひとつ取り上げると、驚くほど保存状態がよかった。金属の蓋に手を当てると、冷たく、そこだけ時間が止まっているような重みが伝わる。缶の側面には何もラベルは貼られていない。ただ、縁に微かに焼け焦げたようなエッジがあり、蓋の縁にはあの焦げ紋が小さく刻まれていた。未焼き――まだ露光されていない、現像されていないフィルムだ、と胸がざわつく。普通なら保存しておくべきものだ。だがノートの警告が、静かに口元でつぶやく。「取り出したいものを得るには、忘却を差し出す…」

彼はそれを棚に戻そうとしたとき、遠くから子どもの声が笑うように響いた。窓の外の路地を一匹の白い犬がすばやく横切り、滑るように夜の闇へ消えた。ふと、犬の背中には薄く泥がついていて、その上に何か白い粉のようなものが付着しているのが、街灯の角度で見て取れた。犬は路地の角で小さく止まり、彼の方を振り返って見た。目は黒く、何かを探すような鋭さがあった。それはまるで、忘れかけた匂いを探している犬のようでもあった。

扉越しに風が入り、スクリーンの端がかすかに揺れる。埃が細い線となって光を補佐し、映写室はさながら一枚の未完成のカットフィルムに見えた。彼はノートのページをもう一度、今度はゆっくりめくる。初代の筆致の最後には、数字と短い暗号めいた記述があった。輝度の閾値を数値で示したのか、あるいは映写の流速か。言葉は不完全で、別の手が補うことを望んでいるようだった。そこに、かすかに曲のような文字列――ラジオの周波数らしきものが書かれ、傍らに「聞き分けよ」と一語だけ添えられている。

彼は鍵をもう一度見つめた。映写室の鍵は物理的な錠を開くだけではないのだろうか。ノートの示す閾値、焦げ紋、ラジオの声――それらが何か重なって、ひとつの儀式めいた手順を形作るらしい。思えば、幼い頃に何度も見た夢で、男はいつも古い映写機のハンドルを回していた。男の声はラジオの雑音にのまれそうな低さで「光を合わせろ」と言っていた。あの夢とノートに書かれた言葉は、偶然ではない。館は何らかの記憶—あるいは役割—を彼に託している。だがそれは、喜びの役割であると同時に、奪うものでもある。

窓の外で、遠方の街灯が一瞬消えた。停電の合図のように、街が息を呑んだ。映写室の蛍光灯の点滅に合わせて、棚の奥から小さな音がした。蓋を戻したはずの未焼きフィルム缶の中で、わずかな振動が起きているのがわかった。金属が微かに音を立て、そこから空気が漏れるような、不思議な感触。彼は思わず手をそっと乗せた。冷たい缶から伝わるのは、静かな時間の鼓動のようだった。触れると、胸の奥で子どもの頃に聞いたラジオの声がまた近くなる。そして同時に、忘れていた母の夕景の断片が、ふっと薄く霞んだ。

「まだ、映さない。」

昴は自分で言葉を出していた。ノートの警告がある。条件も、禁止も、代償もここにある。彼は今夜、この小さな儀式を行うつもりはなかった。だが缶の重みは彼を引きつけ、ノートは先代の手つきの余韻を残す。映写をするならば、光の閾値を超えなければ何も出ないこと、そして出せば何かを喪うことを彼は知っている。幼い夕景の記憶を失う恐れは、まだ彼の胸にくすぶっていた。

外から、再び白い犬が現れ、映写室の扉の下に小さな紙切れを落とした。彼がかがむと、それは角が擦れた封筒だった。差出人の名はなく、宛先にはただ「青柳昴」とだけ書かれている。封を切ると、短い便箋が折りたたんで入っていた。筆跡はしっかりしていて、見覚えのあるひらがなの丸みがあった。

「明朝九時、手伝いに行きます。フィルムの件、話しましょう。佐伯春子」

それだけだった。春子――彼がまだほとんど面識のない、商店街では顔の利くフィルム修復士の名だ。ラインの最後に小さく付けられた丸印は、頼もしさと同時に何か約束めいたものを含んでいる。便箋の紙は、彼に向けられた「来訪」の宣言そのものだった。映写をしないと決めた夜に、誰かがやってくる。誰かが、フィルムとノートのことを知っているのかもしれない。

封筒を握った手の中で、缶の振動がまたひときわ強くなる気がした。白い犬は尻尾を一度振り、路地の闇へと溶けていった。遠くで波の音が低く拍子を刻