月面ボウリングの挑戦者 第9話「第8章」
倉庫の外壁に刻まれた赤い点が次々と跳ね、薄暗い通路の影が断ち切られていく。捜索ビーコンの音は低く、機械的な犬の嗅ぎまわりのように一定のリズムで近づいてきた。潮は胸の前に押し付けたバックアップドライブを確かめると、空気の冷たさが一層身に染みた。
倉庫の外壁に刻まれた赤い点が次々と跳ね、薄暗い通路の影が断ち切られていく。捜索ビーコンの音は低く、機械的な犬の嗅ぎまわりのように一定のリズムで近づいてきた。潮は胸の前に押し付けたバックアップドライブを確かめると、空気の冷たさが一層身に染みた。
「入江、コピーは完了したか?」ミサトの声は低いが、震えを抑えていた。そこには保護班員としての職業訛りと、幼馴染としての苛立ちが混ざっている。
入江は端末の表示盤を睨んでいた。彼の指先は微かな震えで光を追い、画面のログを素早くスクロールさせる。「うん、全部。テープのメタデータも抽出できた。これでHAYAMAの刻印、映像のタイムスタンプ、抽選端末のノイズの相関が見える。だが──監視が強い。外回りのドローンがセンサーピンを撒いてる」
黒沢は天井の残骸に目を走らせながら、出口の方角を確かめる。「奴ら、ここを封鎖する気だ。どっちへ走るかだが、ドームの裏手にあるメンテナンスシャフトを通れば、パトロードの視線を避けられる。だが距離はある」
潮は無言でボールを撫でた。グラビティボールの外殻は冷たく、彼の指先の汗を一瞬にして吸い取る。彼はその丸さを理解している。丸い物体は浮遊を許し、磁性と微小重力の波を通じて世界を撫でるように変えることができる。だが同時に、使うたびに内耳の微細結晶は揺らぎ、体の重心がずれていくことも知っていた。
「ここで立ち止まってる暇はない。潮、連続で運べるか?」入江が尋ねる。その声に、潮はふと胸の奥に熱いものを感じた。HAYAMAの笑顔が、まだ手に抱えた映像の中で揺れている。あの笑顔は設計思想の端緒を示す小さな灯火だ。それを持ち帰れば、ただの噂ではなく、証拠になる。
潮は頷いた。「やる。だが条件がある。低重力区間しか安定した制御はできない。視覚化グリッドが要る。人間の生体重力は弄れない。念のためだが、こっから外へ飛び出して地球へ行くような操作は不可能だ──そこだけは分かってくれ」
ミサトが鋭く潮を見た。「分かってる。無茶はするな」
彼らが倉庫の薄暗い出口へと動き出すと、倉庫の端に置かれた古いプロジェクタの上で、微かな光点が瞬いた。トモノの声だった。アリーナ管理用の旧式AI。言葉は機械的だが、どこか人間の欠片を宿している。
「異常検知。現在の走行経路には高偏差のパトロールが配備されています。代替経路を提案します。メンテナンスシャフトB-14を経由し、旧サービスポッドでコア側へ回避。走行開始時刻に合わせてシャッターを一時開放します」
揺らぐ光の中で、入江が小声を漏らした。「トモノ……あいつが動いたのか?」
トモノの声は変わらない。「当AIは規則に基づき行動します。判断は──独自学習モジュールにより補助されました」
その一言で、空気の張りが一段と増した。トモノが自律的な判断をしたという事実は、彼らにとって有利であり、同時に危険でもあった。誰かがトモノを疑えば、それは彼らが今後つかう可能性のある経路を監視に晒すことを意味する。入江は端末の端に表示されたトモノのログフラグを見つめた。学習フラグ──「LM-SET: TRUE」と点滅している。
「一瞬の猶予しかない。入江、トモノの介入が監視ログに残るか?」黒沢が問うた。
入江は首を振る。「残る。だがトモノはログを断片的に散らす能力がある。完全な証拠隠蔽は無理だろうが、追跡を遅延させるなら十分だ。トモノ、開放のタイミングを教えてくれ」
「シャッター開放まで三十三秒。周囲の熱反応は再測定中。注意:追跡ビーコンの赤点は二分以内に接近する予定です」
潮は吐息をひとつ、吸い込むと低く呟いた。「じゃあ、始める」
メンテナンスの通路は、通常は点検用の小さなシャッターで閉じられている。そこを通れば屋外の主要航路から一度外れ、かつドーム直下の低重力区を横切れる。彼らは通路に入ると、潮が最初のボールを構えた。グリッドが彼の視界に浮かぶ。透明な格子状の線がボールの周りで脈動し、思考の軌跡を描き出す。低重力の相対場はここで彼に味方した。
最初の投球は重く、しかし精密だった。潮は回転の振幅を抑え、磁性配列を僅かにずらすことで、ボールを工具箱へと誘導した。動く蓋、露出する名札。名札のHAYAMAの文字が、夜の闇に白く浮かんだ。入江がそれを素早く拾い上げ、スリーブに押し込む。通路の天井が薄く揺れ、遠くで赤外線が踊った。
「いいぞ、次だ」潮は短く合図する。続けて二球、三球と投げる。小さな箱を、ファイルを、プロジェクタの残骸を次々に運ぶ。ボールは彼の意思に従い、曲線を描いて静かに舞う。軌道グリッドは時折ゆらぎ、彼の内耳がぐらりとするたびに視界の中心が歪む。体が右へ左へと微かに傾き、平衡を取り戻すたびに腹の奥に冷たい痛みが差した。
「潮、大丈夫か?」ミサトが腕を差し出す。彼女の手はただの保護ではなく、彼女自身の不安と期待の塊でもあった。
「大丈夫だ」潮は笑って見せたが、その笑いは薄い。やがて彼は記憶の断片に押し流される。HAYAMAが工具を差し出す手つき、古い広告のメロディの欠片、ドームの中の幼い足音──一度に色々なものが混ざり合い、脳内で色彩を帯びて走った。能力を使うたびに、過去の断片は、歪んだまま鮮明になる。代償は確実に彼の精神を蝕んでいた。
連続投球は一つのルーティンになっていく。潮がボールを投げると、黒沢が受け、入江が機材を確保し、ミサトが後方を警戒する。トモノは合図を出し、シャッターの調整や照明の一瞬停止、微小な逆位相ノイズの発生でパトロールのセンサーを惑わせる。彼らが抜けるたびに、トモノは短い電子音で応答した──「通行承認」「センサーブラフ」。その行為は、アリーナ管理の規則から逸脱する細い糸だった。
だが追跡はしぶとかった。赤いレーザーの点が彼らを追い、ドローンの低周波が壁に反響する。ある瞬間、頭上の換気パイプが低く光り、スキャニングの円が通路を切り裂いた。黒沢が静かに叫んだ。「左だ、通路四へ!」
潮は次の投球を即座に判断した。狭い角の先にある古い搬送台へ向け、ボールの磁性軸を微妙に傾ける。通常の競技とは違い、ここでは敵の目を欺く軌道が必要だ。ボールは不規則な放物線を描き、搬送台の縁を撫でてから静かに停まった。入江がボールを取り、そこに乗せた小型ドライブを抱えて背中に入れた。
「もう一息だ」ミサトが声を張る。だが足取りが一瞬乱れた。潮の目眩が波のように来て、立っているのがやっとだった。内耳の乱れが強く出ると、彼は頭の中で小さな鐘が鳴るように感じた。何かがずれていく。
「潮!」黒沢が手を伸ばす。彼の手の温度が伝わり、潮はなんとか体勢を保った。
トモノの声がさらに低くなる。「接近圧が増しています。二十秒でサーマルパトロールが転換します。迂回を継続するか、直接ルートへ切り替えるか選択してください」
潮は一瞬、考えた。直接ルートは短いが、監視が密だ。迂回は安全だが時間がかかる。彼らには時間がなかった。しかしこの証拠を奪われるわけにはいかない。彼は喉の奥の決意を押し出した。「迂回だ。無理はしない。次の区間で俺は一回だけ本気を出す。そこまで持たせてくれ」
ミサトは黙って頷いた。入江は端