月面ボウリングの挑戦者

月面ボウリングの挑戦者 第4話「第3章」

入江ウタの整備区は、ミナト・ドックの街灯りから少し離れた区画にあった。空気は油と古いゴムの匂いで満たされ、天井には用済みのギアや試作パーツが無造作にぶら下がっている。壁に掛かったアナログのトルク計は長い間微かに振れており、端末の古いブラウン管が淡い橙色の文字を吐いている。ここは最新の統括局ラボでもなく、保全班の整備場ですらない。誰が何を作ったかが見える──そんな場所だった。

入江ウタの整備区は、ミナト・ドックの街灯りから少し離れた区画にあった。空気は油と古いゴムの匂いで満たされ、天井には用済みのギアや試作パーツが無造作にぶら下がっている。壁に掛かったアナログのトルク計は長い間微かに振れており、端末の古いブラウン管が淡い橙色の文字を吐いている。ここは最新の統括局ラボでもなく、保全班の整備場ですらない。誰が何を作ったかが見える──そんな場所だった。

潮は視界に軌道グリッドの残像をひきずりながら、作業台の前に立った。入江の手はいつもの通り器用で、指先が触れると金属が息を合わせるように精度を取り戻す。潮のグラビティボールは静かに螺旋状の光を含んで、コアの周りでほんのり温度を持っている。観衆の前で投げたときとは違う、機械と個人的な静けさの中だ。

「まずは外装から」と入江が言う。彼の眼鏡越しの瞳は興奮と葛藤で揺れていた。整備士の顔は、いつでも好奇心という名の無邪気さに支配される。だがウタはそれに加えて倫理を問う習慣を持ち合わせている。潮の負担を知っているからだ。

潮は頷き、小さく息を吐いた。「やってくれ。無理はしないでくれよ」

入江はコアへ触れ、インパクトレンチのような古い工具を慎重に使って外装を剥がしていった。機械は思ったよりも複雑だった。光ファイバーの束、磁性タレット、小さな陶磁質の円盤が寸分の狂いもなく並び、中心には小さな円筒状の装置が収まっている。円筒の表面には微細な溝と、薄く刻まれた図形──それが署名だった。

「見て」入江が指差す。潮は顎を引いて図形を凝視した。水面に落ちた一滴が描く波紋のような紋様。幼い頃に祖父が見せてくれた工具箱のラベル、その隅にあった波の刻印。あの時の記憶と、断片的に浮かぶ古い広告の一瞬とが、ここで重なった。心臓が跳ねるような感覚が彼を襲った。

「この符号……初期供給ラインのやつかもしれない」入江は低い声で言った。彼の指先が画面を滑り、古いCADログと照合を始める。潮の視界は揺れている。耳の底で常に鳴る雑音が、今は鋭く、薄いガラスをこするような痛みになっていた。

入江がスクリーンに古いスキャンを呼び出すと、並んだ図面の片隅に同じ波紋が見つかった。年代の差はあるが、機構図の階層をたどると、その符号は初期設計群が使っていた識別マークであるらしい。だが公表されている図面には載っていない。意図的に伏せられたか、流用されて消えたのだろうか。

「こんな場所に残っているとは……」入江の声に、少しの震えが混ざる。「しかもコアの製造ロットごとに微妙に差がある。このサンプル、登録外だ。誰かが改変して混ぜたのか、あるいは昔の在庫が混入したのか」

潮は手を伸ばし、裸になったコアを指先で撫でる。温度は人肌より少し高い程度で、内部のフィールドは見えないが確かにそこにあった。視覚化装置を通さなければ精密操作はできない──それが条件だ。彼が直に触れてもボールは意思に応じて動いてはくれない。術者の感覚と視覚化グリッドと低重力環境、それらがそろって初めて軌道制御が成立する。入江は分析を続けながら、その条件を幾度も確認する。

「コアは磁性層と微小加速度配列を持ってる。軌道への干渉は回転を変調してローカルな重力ベクトルを微細にねじる方式だ。でも……」入江は言葉を切り、潮の顔を見た。「この構成、長時間の連続使用は内耳のコクレア素子に影響を与えると思う。あなた、最近よくふらついてるだろ?」

潮は黙って頷いた。声に出すと、その現実が更に冷たくなる。使うたびに耳鳴りが強くなること、立ち眩み、視界の揺らぎ。代償は分かっていたし、隠すつもりもなかった。しかし現物を前にすると、言葉は軽く感じられた。

入江は慎重に続けた。「それと、重要なこと。これ、低重力でしか安定動作しない。地球の重力圏ではモジュールが過熱してコアが無効化される。あと、視覚化がないと精度が極端に落ちる。つまり、投げる者の感覚と外部インタフェースが噛み合わなければ事故りやすい。禁止されてるだろ、人間の生体重力そのものを操作するのは」

「禁止項目だ」潮の声は乾いていた。「軍事利用、人体の操作。分かってる。地球脱出に使うなんて、物理的に無理だ。だが、ここで使うと人が守れるんだ」

入江は迷いの表情を浮かべながら、指先をコアの回路に這わせた。再び画面をスクロールすると、先日の試合でトモノが検出した「微小ノイズ」のタイムスタンプが、コアの稼働時刻と重なった。入江の眉が深く寄る。

「このノイズ……偶然とは言えないな。トモノのログと潮の投球ログ、時間帯が一致してる。投球が起源で発生するノイズなのか、システム側のフィードバックが投球に反応してるのか。どちらにせよ、抽選端末に現れていたあの小さな乱れと同じ周期だ」

黒沢レンが入り口に立って、腕組みしたまま覗き込む。彼はいつものように勝負師の笑みを浮かべているが、目には不安がある。仲間としての連帯と、制度の中で得られるかもしれない恩恵が、彼の中でぶつかっている。「解析が進めば、この能っつぇのか、潮の評価はもっと跳ねるぞ?」と、黒沢はからかうように言う。

潮は答えず、息を整えた。入江がコアの記録メモリを慎重に読み取り、そこに残されたバイナリをアナログ波形に変換する。波形の谷間に、またあの波紋が潜んでいた。署名がデータとして残っている。入江はそれを画面上で拡大し、符号化された文字列を解読するようにじっと眺めた。

「読み取りによると、これは初期設計者の識別符号――でも、もう一つ、製造管理の暗号が重ねられている。誰かが後で注入した可能性がある。しかも、注入された時期と潮の『記憶の断片』が一致するように見えるんだ」入江の声は小さく震えた。好奇心と恐れが同居する。

潮の胸の中で、幼い日の映像がひとつ、ふたつ、鋭く浮かんだ。古い土の臭い、祖父の音声、そして海辺のネオン広告。彼はいつもそれを「前史」と呼んできた。だが今、その断片は設計図の符号と接続されそうになっている。もしそれが事実ならば、単なる遺伝的直感や偶然では済まされない。何かが誰かの意図で、あるいは設計の過程で潮の記憶と結びついている。

そのとき、潮の身体が抗えない反応を示した。耳の奥で小さなガラスがはじけるような痛みが走り、世界がぐるりと回った。手元のボールがゆらりと揺れるのを感じ、潮は思わず作業台に手をついた。視界が二重に重なり、遠くの光が軋む。

「潮!」ミサトの声が飛んできた。彼女は整備区の入り口を走り、潮の肩に手を置いた。顔には怒りと、抑えきれない心配が交差している。「もうやめて。ここで倒れるところは見たくない」

潮はそれでも首を振る。「大丈夫だ。少しだけ休めば戻る」だが言葉は薄く震え、座り込むように膝を折った。入江は即座に応急処置キットを引き寄せ、簡易の浮力ベストを彼の肩に掛ける。彼らは長年の連帯で、こういう事態に慣れているふうを装うが、瞳には確かな焦りがあった。

「コクレア素子の乱れ、現象としては短期的な平衡障害。だが累積で骨代謝に影響が出る。潮、君は速度と回転のコンビネーションが特異だから、普通より負荷が大きい。知らなかったとは言わせないぞ」入江は冷たく言うが、言葉の端は優しかった。

潮は軽く