ネオン街の探偵娘

ネオン街の探偵娘 第8話「第7章」

雨が細かくなったり、針のように痛くなったりする夜だった。ネオン通りの看板は、濡れたアーケードの天井から下へ垂れた光の帯を震わせ、舗道を宝石のように切り刻んでいる。紅原ユイはフードの縁に溜まった水滴をそのままに、肘を曲げて路地の闇へと身を沈めた。街の喧騒が遠ざかるほど、彼女の呼吸だけがはっきりと聞こえる。夜間視力は、回を重ねるごとに薄くなっていた。暗所に入る瞬間、世界の輪郭が一枚ずつ剥がれていく感触がある。だがそれでも、やらねばならないことがあった。

雨が細かくなったり、針のように痛くなったりする夜だった。ネオン通りの看板は、濡れたアーケードの天井から下へ垂れた光の帯を震わせ、舗道を宝石のように切り刻んでいる。紅原ユイはフードの縁に溜まった水滴をそのままに、肘を曲げて路地の闇へと身を沈めた。街の喧騒が遠ざかるほど、彼女の呼吸だけがはっきりと聞こえる。夜間視力は、回を重ねるごとに薄くなっていた。暗所に入る瞬間、世界の輪郭が一枚ずつ剥がれていく感触がある。だがそれでも、やらねばならないことがあった。

「下見は済んだか?」

低く、落ち着いた声。月城カナメが背後で傘を振るい、濡れた紙切れを差し出した。彼の顔は疲れている。目の奥に、街を食い尽くした光企業の影がある。

ユイは紙を受け取らずにカナメの肩越しに表通りを覗く。通りの向こうで、ルクシア社の巨大な看板が顔を赤から青へ滑らかに変えている。スケジュール——それは配色の時間割り表だ。看板の色がいつどのように変わるか、どの掲示がどの信号に従うか。光の時間割りが分かれば、彼らはルクシアの目をかいくぐることができる。

「手に入ったのは一部だ。下請けの修理屋の旧友が、夜勤表と一回分の配色スケジュールを裏で渡してくれた。完全じゃない。だけど、イベントのタイミングは入ってる」

カナメの声は慎重だ。ユイは紙の端にうっすらと残された文字と数字を視線で追った。蛍光のインクで書かれた列に、時間の刻みとコード列。だが紙の端に小さな、誰かの指先で押されたような赤い染みがあった。そこには、見覚えのある紋様が滲んでいた——夢の中で何度も見た赤い刻印に似ている。ユイの胸がぎゅっと締めつけられる。

「これ、どこで——」

「俺の友人からだ。名前はシン。小さな工事屋だ。ルクシアの下請けで看板の配線とかをよく触ってる。だが最近、直接の契約は切られた。怪しい端末の設置を強制されて、断ったら子供が行方不明になったって。俺の知ってるやつはもう──」

カナメは言葉を切った。彼の声に、個人的な怒りと後悔が混じる。ユイはそれに返す言葉を見つけられなかった。カナメが自分の旧友を頼って情報を引き出したこと、それがどれほど危険な賭けであったかは分かっている。だがユイにはもっと具体的な課題があった。情報をどう実地で使うか、そして自分の能力をどこでどう使うか。それは慎重でなければならない。

「見せて」

カナメが紙を差し出す。ユイは手袋越しに受け取り、淡いネオンの下で紙面を撫でた。配色コードの隣に、ノートのような走り書きがある。数字の列と、それに混じる短い譜割のような記号——五線譜の断片を思わせる小さな波線。ユイは指先でその波線に触れ、鼓動が一拍早くなるのを感じた。あの電子メロディの断片だ。路地のどこかで、いつも耳に残っていたあの、紙片の縁に微かに刻まれた音符。ルクシアの配色信号に同期する「音のコード」。ユイはその断片をずっと追ってきた。紙の波線は、明確に配色の「同期コード」の一部を示している。

「……あいつら、表でやるつもりだ。イベント用に一斉に配色を替える。影彩連が外向けに広告を出す予定がある。広告の色が、ある種の同期信号に重なると、配色全体が一つの大きな制御ループに入る。紙には、その日時が載っている」

ユイは紙の隅にある日時を見つける。小さな数字列。十四夜——とは書いてない、だがスケジュールの一部に、会場名と思しき単語が入っている。社外の広場。ルクシアが表向きに許された広告ショーを利用し、裏で別の符号を流す。ユイの背筋に冷たいものが走った。

「それなら、俺たちは潜り込める」カナメの声には、決意が戻っている。「問題はどうやって。現場は明るい。お前の『ネオンの裁』を使えば嘘は暴ける。だがあの場は監視が厳しい。表で能力を使えば記録される可能性がある。ルクシアは目と音を同時に監視してる。お前が表舞台で色を読み始めたら、向こうはすぐに反応する。お前を潰すには十分だ」

ユイは静かに首を振る。能力の条件はいつも頭の中で反芻される。看板の光が必要で、対象が光の下で話すか近接するか。声を一人ずつしか解析できない。自分が嘘をついたら暴走する。使うたびに夜見る力が削られる。公開の場での使用は、あらゆるリスクを抱えている。ここでの判断は命取りになりかねない。

「だから、目立たない形で動く。裏口を探る。看板の裏、配電盤の近く。カナメ、そっちのルートで中継をずらしてもらう。森下さんには現場から離れた位置で色差スキャン器具を用意してもらう。光を絞って私が一人に集中できるように」

「色差スキャン……」カナメが眉をひそめると、路地の角から細い光が差した。森下光司が工具箱を肩に、薄笑いを浮かべて現れた。彼の背には、古びたネオンの管が取り付けられている。工房で見たあの赤い刻印を模したステッカーが工具箱の角に貼られている。

「出来てるよ。試作二号。今夜の試運転に付き合ってくれ。街の光を一つに絞る代わりに、ある波長だけを拡張しておける。ユイさんが一人の声を『読む』ための専用ズームだ。だけど万能じゃない。ブレる。長く持たせるとお前の視界がもっと悪くなる。使い方はお前次第だ」

森下のその言葉に、ユイの胸は少し軽くなる。彼とは第2章で会って以来、古いネオンの職人的知識で幾度となく支え合ってきた。今回は職人的な“色の焦点”を作るらしい。森下は器具を床に置き、中のフィルムやレンズを滑らせて見せる。金属の匂い、ガラスの擦れる音、そして血のように濃い赤い刻印の小さな金具——彼はそれを指先でなぞった。

「これでやってみる、ユイさん。あんたは看板の下に立つ。俺は裏側の配線を経由して、指定の看板の光を少しだけ歪める。色差スキャンは、配色の帯域を狭めることで差分を浮かび上がらせる。つまりお前が解析する音声に対する『色のスポットライト』を作るんだ。だが、注意。お前が嘘をつくときに起こる反転現象は、この装置で増幅される。つまり、嘘をつかないこと。自衛手段はルミさんの黒手帳にある暗所術だけだ」

ユイは軽く息を吐いた。ルミの黒手帳。暗所での小さな癖。ルミが教えてくれた、目を奪われそうな瞬間に自分を根付かせるための所作。忘れかけたそれを思い出し、指先で紙片を撫でる。ルミが捕らえられてからの数日、ユイは何度もその紙切れを手の中で揉んだ。そこには「暗所での呼吸、指の位置、視界の境界を触る」ような絵と言葉があった。儀式的な呼吸法というよりは、灯守が生き抜くために残した手引きだった。

「それで行く。だが、公共の場では能力を使わない。今夜のうちに、森下の器具でどれだけ光を寄せられるか試す。俺はシンと連絡を取り、イベントの外回り——裏口の図面とか防犯配置とか、動きやすい時間帯を割り出す。ユイ、お前は路地で『読み』を続ける。だがターゲットは一人ずつ限定。混乱が起きたら即撤退だ。ルミを取り戻すまでは、無茶は出来ない」

カナメの目が真剣に光る。ユイは頷いた。彼が今回情報を得るために払った代償の重さを知っている。カナメは自らの過去を滲ませつつ、情報屋としての腕を振るう。ユイはその背中を見つめ、自分がどれだけ仲間に依存しているかを改めて思う。ルミを取り戻すために、彼らは互いの弱点を補わなければならない