ネオン街の探偵娘 第9話「第8章」
会場は光の洪水だった。絢爛としたネオンが天井からぶら下がり、鏡面の床に艶やかに反射していた。ルクシアの新ライン発表会――表向きにはそう銘打たれた社外イベントだが、そこで交わされる会話の裏側に、影彩連の取引が潜むとカナメは読んでいた。ユイはフードを深く被り、群衆の逆光に紛れて人の流れを見つめた。森下が仕込んだ小さな器具はコートの裾に隠され、コトは計画通りに目立つ役目を担っていた。カナメは端末を見ながら、シンと離れた位置で連絡を取り合っている。
会場は光の洪水だった。絢爛としたネオンが天井からぶら下がり、鏡面の床に艶やかに反射していた。ルクシアの新ライン発表会――表向きにはそう銘打たれた社外イベントだが、そこで交わされる会話の裏側に、影彩連の取引が潜むとカナメは読んでいた。ユイはフードを深く被り、群衆の逆光に紛れて人の流れを見つめた。森下が仕込んだ小さな器具はコートの裾に隠され、コトは計画通りに目立つ役目を担っていた。カナメは端末を見ながら、シンと離れた位置で連絡を取り合っている。
だが光が多すぎた。看板が乱立し、広告の色は層を成して重なり合い、会場全体の配色は細かく変化していた。ユイの眼前に無数の色の帯が波打ち、どれが発言者の発語に反応している波紋なのかがわからない。能力は「ネオンの裁」――発言が看板の光の下で行われた瞬間、その言葉に含まれる嘘を色の波紋として視覚化する。条件は単純だが厳格で、ターゲット一人に対して一源の光が必要だ。今の会場は光の合唱であり、ユイの視界は容易に誤読の海に沈められそうだった。
「ここだ」森下の指示は耳元の小型スピーカーを通じて届く。彼は一瞬の隙を突いて器具を取り出し、柱の陰で素早く位置を調整した。器具は旧来のネオン管の波長を模した狭い光束を作り出す。会場の雑多な光の中で、その束だけが特徴的な帯としてユイの視界に差し込む設計だ。森下がひねるノブ一つで、器具の色相は微妙に振られ、ユイの目には一本の「薄い帯」が他の帯よりも鋭く浮かび上がった。
「これで一人に――焦点を絞れる」森下の声が震えた。職人の手つきにはいつもの落ち着きがあるが、彼の肺の奥で微かな緊張が蠢いているのをユイは感じ取った。会場で流れるBGMには、あの電子メロディの断片が陰に忍んでいた。低く、断続的に繰り返される合成音は、序章でユイが聞いたそれと似通っている。心臓が跳ねるように、ユイの胸の奥で何かが反応した。
「気をつけて。あのメロディは同期コードの欠片だ。場内のどこかに同期信号を送るスピーカーがあるはずだ」カナメは端末を覗き込みながら囁く。彼の表情は硬い。カナメは数年前にルクシアの光政策で家族を奪われたと語っていた。その痛みが、今――会場のきらびやかな表情の下に潜む冷たい目的を彼に見せている。
司会者が高らかにマイクを取り、拍手が起きる。拍手の波が一時的に会場の音像を覆い、ユイはその瞬間を待った。ターゲットは三人ほどの業者が交互に旧ネオンの由来を語るパネルにいる。ユイは森下の器具で一人ずつ光を絞り、対象の発言に反応する帯を追っていく。だが、思ったよりも難しかった。男の声が発せられれば、その声に反応したはずの色の波紋が、隣の大きな広告モニターの色変化と干渉して微妙にずれる。複数の光源が同時に反応して、彼女の視界に二重三重の嘘の輪郭が浮かぶ。
「落ち着いて、一人だ」森下の声がまた届く。ユイは深呼吸をし、器具の束に集中する。彼女は嘘を見抜くとき、言葉そのものではなく、光の揺らぎから感覚を拾う。人の声と光が一致する瞬間、その言語表層に露出した偽りが鋭い補色として現れる。ターゲットの胸元に当てられた光束がわずかに震えた。男が古びたネオン片を掲げ、誇らしげに語った。
「これは――灯守の時代の、本物だ。保存状態も良好。これ一つで、看板の記録を操作する鍵が付くと保証しよう」
その言葉に、ユイの視界に一本の極めて鋭い補色の帯が走った。補色は深紅に近い緑で、核心的な虚偽を示す色だ。波紋は対象の言葉の核を指し示す。男の口からこぼれた"保証"という言葉に対し、真実は全く異なる色を示していた。ユイは微かな違和感を感じた。男は過剰に断定的だ。裏の文脈に不協和がある。
耳元の通信機に小さく吹き込む。「買い手の反応を見て――名前が出たら知らせて。俺は――これを解析する」ユイの声は低く、はっきりしている。声を潜めるのは、能力の条件を満たしつつも場の監視に目をつけられないためだ。能力は能動的に使えば見抜けるが、目立てば相手に感づかれる。それは危険だ。
男の話術が続く。ガラスケースに並べられたネオン片の一つが照明の下で青白く光った。ユイはそれを食い入るように見る。刻まれていたのは――夢で何度も見た、赤い刻印の一部だった。紙片の上で彼女が見たのと同じ、古びた紋様が窪みのように残っている。胸が押しつぶされるように痛んだ。赤い刻印は灯守の署名に等しい。ここにあるということは、灯守の痕跡が商品として取引されている証拠だ。
だが口を挟むわけにはいかない。ユイは目の前の光束をじっと見つめ、器具を微調整する。次に話す人物を――選ばれた一人の口を狙うためだ。ターゲットの一人、黒いスーツの紳士がケースの前に近づき、低い声音で質問を投げかけた。「この刻印は確かに本物かね。所有者の記録はどうなっている?」
その瞬間、器具の光束は紳士の胸元に吸い込まれるかのように閃いた。ユイの視界に、薄い帯が鋭く立ち上がった。紳士の口から言葉が滑ると、色の波紋が膨らみ、すべての嘘の輪郭が浮かんだ。だが――その輪郭は混ざり合っていた。会場の放送で流される音声と、紳士が取り巻きにささやいた小声が同時に届き、ユイはどちらの言葉に応じた波紋なのか判断を誤りそうになる。器具で焦点を絞っていても、光の反射は完全には制御できない。誤読は致命的だ。
「長く使いすぎるな」カナメの低い警告が耳に入る。彼は自分の影と軽く擦れ合う紳士の袖口を目にしていた。その袖の織り地には、ルクシアの何処かで見たような端緒的な紋様が浮かぶ。カナメの指先に力が入り、彼はすぐさま内線でシンに合図を送った。シンは会場の外回りから戻る手筈だ。
紳士が笑みを含んで言った。「所有者の記録か。書類は失われた。だが、刻印そのものは極めて希少だ。保存されている限り、我々の管理下にあることを示す証明にはなる」
その言葉に、ユイの視界に出た波紋が鋭い補色を示した。核心的な嘘――紳士は記録の所在を知っているか、少なくとも彼の発言は事実を隠す意図が強い。だが同時に、紳士の口元からもう一言、小さく漏れたそぶりがユイをつまずかせる。彼の横で囁いた男の声が、場内のスピーカーの反響と重なり、ユイは誤ってその囁きを解析対象にしてしまう。波紋が二つに裂け、色の輪郭が崩れかかる。頭の中に鋭い痛みが差し込んだ。
「ユイ、やめろ!」森下の声。器具を操作していた手が震え、光束が揺れる。ユイは身体が傾きそうになるのを必死で支えた。能力は精度が命だ。誤読は事態を混乱させるだけでなく、ユイ自身の代償につながる。使用するたびに彼女は夜間視力を失う。今はまだ暗闇を散歩するにはほどほどの視力が残っているが、これ以上の無理は取り返しがつかない。
彼女は声を出さず、口の中で確かに真実を飲み込む。だが喉の奥に走るのは、嘘に抗うための苛立ちと、灯守としての血が目覚める微かな力だ。赤い刻印を前にして、ユイは自分の内側に眠る過去の残滓を感じた。もしこれが灯守の物品ならば、ルクシアだけでなく影彩連までがその痕跡を渇望する理由になる。だが今ここで無闇に動けば、仲間を危険に晒す。ユイは選択した。能力をいったん封じ、別の形で情報を得る。
彼女は小さく手を挙げ、森下に合図する。器具の光は細くなり