ネオン街の探偵娘 第21話「第19章」
階段は延々と続いた。錆と油の匂いが唾と汗に混じり、金属の冷たさが掌を通して骨に伝わる。外では街のネオンが奇妙に波打ち、遠くから合図のような電子メロディが断続的に漏れ聞こえてくる。ユイは胸に抱いた紙片の刻印を指先で確かめた。赤い線が、いつも夢に現れるあの紋と同じ形で走っている。だが今は夢ではない。時間は刻一刻と迫っていた。
階段は延々と続いた。錆と油の匂いが唾と汗に混じり、金属の冷たさが掌を通して骨に伝わる。外では街のネオンが奇妙に波打ち、遠くから合図のような電子メロディが断続的に漏れ聞こえてくる。ユイは胸に抱いた紙片の刻印を指先で確かめた。赤い線が、いつも夢に現れるあの紋と同じ形で走っている。だが今は夢ではない。時間は刻一刻と迫っていた。
ルミが低く呪文めいた声を立てる。黒手帳の所作をなぞる指先は、薄暗い通路に不思議な「静けさ」をもたらした。暗所の癖――ルミがそう呼んだ術式は、視界の喪失をわずかに遅らせ、感覚の焦点を手繰り寄せる。ユイの後頭部で冷たい風が走り、彼女の中の夜間視力が一瞬だけ安定するのを感じた。
「ここから先は、器具が頼りだ」森下光司は肩に重い筐体を抱え、短く告げる。彼の作った色変換器からは低い唸りが漏れ、金属フレームが微かに振動していた。「こいつで位相を作る。カナメの妨害ノードがその間に外部同期を切る。二十秒の窓は、重ねて三十五秒に伸ばす。だがその間、ユイは――」
言葉はそこで途切れた。カナメの通信である。断続的に入る息づかいと、微かな笑い声。彼の声は弱々しいが、確かな命令を含んでいた。
「外のスクリーンはやったか? コト、札は」ユイが即座に答えを求める。
コトは小さな手で拳を固め、頷いた。「外のやつ、動いてる。みんな見るようにした。けど変な音で注意もそっちに行くよ!」
窓のない通路の向こうから、人声と足音が距離を詰めてくる。巡回だ。ルクシアの監視は、ただの人員だけではなかった。光の網が生き物のようにうごめき、壁に設置された小さな発光体が監視の眼として回転している。ユイはそれらを見て、胸の底に薄い恐怖がよぎる。光がある限り、彼女は嘘を見抜ける。だが使いすぎれば闇で何も見えなくなる。
「狙いは一人だ」ルミが小声で言う。「一度に一人しか解析できない。それを忘れないこと。複数にやれば、混線して無意味になる。お前はその一点に集中して」
ユイは深く息を吸い、体内の鼓動をゆっくりと整えた。嘘は言わない。自分自身に課した掟を反芻し、彼女は能力の条件を脳裡で反芻する――灯りの下、対象の発言にだけ反応すること。録音も過去の言葉も効かない。自分が嘘をつけば暴走する。そうしているうちに、足音が目の前で止まった。
「チェックだ」低い男の声。戸板を叩くような乾いた音がして、二人組の巡回が現れた。彼らは口元を布で覆い、腕に小型のネオン発光器を巻きつけている。明るい器具は監視の補助であり、同時に彼らをルクシアの光網に紐づけるタグでもあった。
ユイの視界に波が立った。薄桃色の淡い輪が、一人の男の唇から広がる。最初は小さな色の泡だったが、すぐに強い補色の橙が現れ、輪郭が刺々しく裂けそうになった。鋭い補色――核心の虚偽を示す。彼は何かを隠している。だが相手は二人。ユイは冷静に選ぶ必要があった。どちらが重要かを判断するために、彼女は声のトーンと視線を拾い、内蔵されるリズムで選択を定めた。
「そこの女、手を見せろ」巡回の一人が命令する。彼はユイの顔を見下ろす。ユイはそれに答えたふりをして無言でいる。命令者の口から、言葉が流れた瞬間、ユイの視界は色の渦に満たされた。薄い緑のうねりが、嘘の濃度を測るように広がり、中心に鋭い赤の線が走る。彼は過去の記録を隠蔽し、通報者の存在を消すつもりでいる。嘘は罪深い。だがユイは生来の探偵としての機転を働かせる。声を拾い、言葉尻の一か所を「引き出す」ように問いかけると、彼は口ごもった。
「誰が――」吐き捨てるように言ったその瞬間、ユイは小さく息を吐き、色の渦を視線で追った。「お前は、影彩連と繋がっているんだな?」声は薬のように薄く、確証ではない。
男の眼がぴくりと動いた。真っ赤な補色が鱗のように散り、嘘の核が露呈する。彼は焦りを見せる。ユイはその一瞬を利用した。足元にあった小さな発煙弾を素早く蹴り上げ、薄い白い煙が通路を満たす。光が拡散し、監視の眼の精度が落ちる。森下の器具がそれを捉え、周波数を変調して色の位相を乱した。男たちは混乱し、後ずさる。二十秒の窓が、わずかに伸びた。
だが代償は即座に来た。ユイの視界は暗くなり始め、周囲の輪郭が滲む。顔の位置がぼやけ、コトの小さな体が遠くて見えない。彼女は急いでルミの腕を掴み、支えを求める。ルミの掌は暖かく、安定させるように彼女の肩を抱いた。
「まだ、行ける」ルミの声は静かだが揺るがない。「深呼吸して。暗所の癖、全部やるの。目を瞑って、周りの音で位置を取るんだ」
ユイは目を閉じ、耳を澄ました。遠くで鳴る電子メロディの断片が、階段の金属に反響し、規則正しいリズムに変わっていく。彼女の中で何かが反応した。幼い頃に夢で見た旋律が、今ここで現実の装置のパルスと重なり合う。メロディはあの日の路地の断片と一致していた――伏線が一つ、現場で繋がる。
「コト、外で札を掲げろ」カナメの声が通話から漏れる。彼の息は粗いが指示は的確だ。「群衆の視線をひとつに集めろ。見世物効果で監視のリソースを散らす。お前はその隙に最上のドアへ行け、ユイ」
階段をさらに上がるたび、外の空気はひどく濁っていった。報道スクリーンの光が扇状に塔を照らし、群衆のざわめきが低周波のうねりとなって伝わる。誰かが叫び、誰かが泣き、そして誰かが携帯の小さなライトを掲げる。色の洪水の中で、ユイは自分がどれほど光に頼って来たかを痛感した。暗ければ見えない。見えなければ名前も記憶も消える。だがそれでも、彼女は前に進む。
最上階への最後の踊り場で、ユイ達は待ち受けるもう一つの試練に直面した。巨大な円形の回廊を囲むように、配色ユニットが並んでいた。小さなランプが百個、千個と整列し、まるで巨大な目を形成している。器具の光が拍子を刻み、回廊全体が生き物の鱗のように波打っていた。真ん中には厚い金属の扉。その表面には、幾重にも彫られた円形の溝があり、よく見るとそこに、ユイが夢で見た赤い刻印の反転した輪郭が組み込まれている。刻印は、ここに来るために待っていたかのように、負の形で扉に刻まれていた。
「これが……」森下の声は震えていた。「刻印の逆符号。ここにその位相が組み込まれている。ルミの手帳にあった通りだ。刻印を普通に押しても、配色盤は反応しない。逆に押す必要がある」
ユイは掌の中で刻印の紙片をゆっくり回す。赤の線は紙越しにも生温かく、彼女の掌に吸い付くように感じられた。灯守の記憶が、微かに彼女の指先をくすぐる。だがその気配は同時に恐怖でもあった。刻印を媒介すると、灯守の声が強まり、彼女の内面に古い名前と古い記憶を差し込んでくる。自我の境界が薄くなる予感は、冷たく、苦かった。
「二十秒の窓はここで終わる」カナメの声がハック音の向こうで告げる。「だが器具が位相を維持する。お前が刻印を押すとき、俺が同期を狂わせる。逆符号のためのテンポ変更は森下がやる。ルミはお前を闇に繋ぐ。コトは外で群衆の目を引き続けろ。全部が噛み合えば、扉は開く。だがユイ――これは一回きりだ。戻れないかもしれない」
ユイは刻印を胸に押し付け、静かに視線を上げた。顔に浮かぶ青白い汗は、恐怖と覚悟の混合だ。仲間の顔が重なり、見慣