ネオン街の探偵娘

ネオン街の探偵娘 第20話「第18章」

刻印に触れた指先の震えはまだ残っていた。赤が瞬きをし、ユイの視界の端で古い歌が囁き返す。だが掌に伝わるのは、灯守の優しい誘いだけではない。時間がない——それだけは、肌の裏側で冷たく脈打っていた。

刻印に触れた指先の震えはまだ残っていた。赤が瞬きをし、ユイの視界の端で古い歌が囁き返す。だが掌に伝わるのは、灯守の優しい誘いだけではない。時間がない——それだけは、肌の裏側で冷たく脈打っていた。

「一度に感情を掴むのは危険だ」ルミが低く言った。暗所術で呼吸を整えた彼女の声は、いつになく落ち着いていた。ルミの黒手帳の紙片がユイの掌の中でざらつく。そこに走り書かれた逆符号の断片は、曖昧だが確かな手掛かりを示していた。逆に押す。逆に導く。符号の位相を反転させる——その理屈は職人的な直感でしかないが、灯守の仕組みに対抗する唯一の道であるように思えた。

「カナメ、君のラインは?」ユイは肩越しに端末の画面を見た。カナメは血の匂いを含んだ手袋をして、画面に表示されたログの断片を指でなぞっている。彼の顔には疲労と焦燥と、掠れた笑みが混じっていた。

「配色スイッチは中枢のバックアップ分岐にある」カナメは短く答えた。「正確には、掲示塔の五層——“パレットコア”と呼ばれてる部分の物理オーバーライド。そこを切れば広域同期が一時的に外れる。だが、直接手を触れるにはアクセス端末を切って、物理キーを回すしかない。電磁ロックがある。誰かがそこへ行くしかないんだ」

「それを誰がやる?」光司がそっと持ってきた小箱を開ける。中には色とりどりのガラス管、微細な点灯器が並んでいた。森下の色変換器だ。彼は器具を裏返し、薄い金属の爪で微調整をする。器具は配色波を乱し、ネオンの位相を一時的に“ずらす”ことができる。だがその持続時間は短い。配電系が再同期するまでに使えるのは数十秒から長くて二分──森下は顔をしかめ、短い見積もりを出した。

「俺の器具がパレットの信号に当たれば、その間に物理解除をやれる」森下の声は静かだが確固たる。彼の目は、古いネオンの肌理を読む職人そのものだった。「だがそれでも、誰かがキーを回す必要がある。電磁ロックは外殻だ。中枢の盤面は熱も人の監視も厳しい。つまり前線に出る奴が必要だ」

「私が行く」ユイは反射的に言いかけて、すぐに口を閉じた。能力を使えば場所を読み、壇上にいる者の発言を暴いて一気に混乱を作れる。だが使うたびに夜間視力を削る。今はそれをできるだけ残さねばならない。彼女の夜の視界は、もう細い糸のようだ。

「ダメだ」カナメの声がすっと割り込んだ。「ユイ、君は刻印に近づきすぎた。今使えば──代償が一気に来る。俺が入る」

その言葉は、薄い怒りと深い配慮の混ざったものだった。ユイの心臓がきゅっと鳴る。カナメは以前から自分の身を賭してでもユイを守ると言っていた。だが今回は違った。彼はただ守るだけではなく、可能な限り先陣を切って情報を掴み、ユイを守る時間を作ると言ったのだ。

「俺は内部のバックラインを使って入る。旧友を頼る。それがうまくいけば、パレットコアの位置と物理キーの運用方法を教えてもらえる。少しの時間、器具で同期を乱してくれ」カナメは端末を握り、画面に短い命令を打ち込む。「だが――戻らなきゃならない。約束だ、ユイ。俺はここで君の力を使わせはしない。お前は最後の一歩を踏み出せ」

その瞬間、ユイは胸の奥で何かが決まるのを感じた。言葉にならないものが、カナメの背中を押していた。彼の顔には、家族を失った寂しさと、それでも街を取り戻したいという熱があった。ユイは小さく頷く。嘘をついてはいけない。自分がもしここで嘘をつけば、能力の禁忌が暴走する。言葉は短く、真実だけが混じるようにした。

「行け」ユイは言った。「だけど気をつけて。ログの改竄が進んでる。誰が内部で味方か、わからない。もしも裏切りがあれば、すぐに知らせて」

カナメは笑ったように見えて、すぐに真顔になった。「わかってる。万が一の場合は……俺は戻らないかもしれない。だが、それでも行く」

その言葉に、皆の胸が締め付けられた。ルミはハンカチで目端を拭った。コトは小さく唇を噛み、ユイの手をぎゅっと握った。森下は工具を更に固く抱えた。誰も言葉はなかった。言葉はここでは、無力だった。

カナメは闇に紛れて出て行った。彼が去った路地のネオンは、普段より少しだけ青みがかって見えた。ユイは刻印の赤を見つめ、逆符号の紙片に指を押し当てた。ルミの術で短時間だけ、彼女は暗所での安定を得ることができる。だがその時間は、針で測ればそう長くはない。

その間に、森下は器具を最終調整した。金属の爪が微かに振動し、ガラス管が淡い緑に光る。彼は器具をユイに差し出した。「これが動けば、パレットの同期に位相の“くさび”を入れられる。だがその分だけ、戻す力も働くだろう。用心しろ」

「用心はする」ユイの声は静かだ。彼女は器具を受け取り、掌の温度でその冷たさを確かめた。機械の冷気が皮膚を撫で、同時に古い灯守の歌が微かに重なる。敵と自分の間に立つ薄い膜が、今、指先で裂かれるのをユイは感じた。

外で、カナメからの短い通信が入った。低い息遣いと遠くの足音。彼は中枢に触れた。だがその声はふと途絶え、少ししてからまた入った。「見つけた。キーの位置は……五層南の保守通路だ。だが今、誰かが回り込んできた。足音が増えてる。やばい、待ってくれ……」

通信は断絶した。ユイの胸が凍る。彼女は無意識に刻印の赤に手を伸ばしたくなったが、すぐに制した。能力を使えばカナメの声を追って手を差し伸べることができる。だがそれは代償を重ねることを意味する。今はまだ、ユイは使えない。

数分後、カナメが戻ってきた。彼の背中には深い擦り傷があり、片腕からは血が滴っていた。顔色は鉛色で、呼吸は浅い。だが目は光っていた。ユイは駆け寄り、思わず彼を抱きかかえた。

「どうした」ユイの問いに、カナメは短く笑った。「接触した。旧友は裏切ってなかったが、別の奴らが付けてた。影彩連の手先だ。奴らは今回、ルクシアの黒い会合に潜り込んで、我々の動きを察知してた。殴られて、火を使って監視を…でも情報は持って帰れた」

彼は胸元からぼろぼろになった紙片を引き出す。そこには手描きの矢印と“PALLET MAIN”の文字、そして細かな図面があった。ユイはそれを受け取り、吸い込まれるように見た。そこには物理キーの位置、磁気配列、そして外殻ロックの解除手順が記されている。カナメは微かに苦笑した。

「これでできる。だが時間は短い。俺の腕はもう駄目だ。多分、明日は治らない」彼の瞳に一瞬、過去の影が流れる。ユイは答えを返せなかった。言葉は軽すぎた。代わりに彼女は拳を固めた。

「ありがとう」ユイはただそう言った。感謝と決意が混じった単語は、今は十分だった。カナメはゆっくりと頷き、頭を振った。「俺は……君たちに借りがある。払うつもりだ。だが今は——ユイ、君が最上に向かう時は、俺がここで同期を狂わせる。ロックの一瞬を作る。ルミの術と森下の器具で、君に二十秒の窓をやる。その間に刻印を逆符号にするんだ」

「二十秒しかないの?」ユイは息を詰める。二十秒で何ができるのか。刻印を正確に配置し、配色盤に逆符号を刷り込み、信号を広域へ放つ──。それは想像するだけで無理があるように思えた。だが森下の器具とルミの術があれば、時間は数十秒伸びるかもしれない。コトが小さく笑っ