ネオン街の探偵娘 第2話「第1章」
雨はまだやまない。ネオンの帯が路面を引き裂き、色が水溜まりに溶けては波紋を描く。ユイは灯下の毛布を肩に留め、掌の記名札の破片をぎゅっと握りしめた。ルミの言葉が胸に残る。「名乗ることは忘れるなよ」。名前は、灯りが消えても人を戻す鍵——ユイは指先で自分の名を確かめるように、唇の端で音を確かめた。紅原ユイ。小さな声だが、確かにそこにあった。
雨はまだやまない。ネオンの帯が路面を引き裂き、色が水溜まりに溶けては波紋を描く。ユイは灯下の毛布を肩に留め、掌の記名札の破片をぎゅっと握りしめた。ルミの言葉が胸に残る。「名乗ることは忘れるなよ」。名前は、灯りが消えても人を戻す鍵——ユイは指先で自分の名を確かめるように、唇の端で音を確かめた。紅原ユイ。小さな声だが、確かにそこにあった。
路地の入り口には、古い広告看板が一つ、橙色の光を弱く吐いている。人通りは深夜のせいでまばらだが、ネオン通りの主要な角はまだ明るく、何人かの酔客が歩いている。ユイは記名札の破片を懐にしまい、光の帯をたどるように歩き出した。目標はただ一つ、ミオを見つけ出すこと。依頼人の父親の目に浮かんだ疲労と期待が、ユイを外へと駆り立てる。
通りの角で、声が聞こえた。中年の男と若い女が看板の光の下で言葉を交わしている。男は薄いコートを羽織り、帽子を深く被っている。女は小さなカバンを抱え、時折肩をすぼめるようにして寒さを凌いでいる。男の言葉は明瞭だ。「ミオなんて見てない。あの子の話は知らない」と、平然と否定した。だが彼の視線は女の手元に寄せられていた。何かを隠す体の硬さが、言葉の裏にある。
ユイは立ち止まった。看板の光が彼らの輪郭を浅く照らしている。ネオンの裁──ユイはその名を自分の中で静かに呼び、視線を男の唇へと集中させた。条件はいつも決まっている。対象が看板の光の下で話すこと。光が言葉を媒介し、色の波紋が嘘を描く。
唇が動くと、光の表面に波紋が生じた。最初は淡い青。次いで、言葉の芯に触れた瞬間、補色の鋭い朱が輪を成す。色はまるで言葉の背後を映す皮膜のように、男の周囲を走った。ユイの視界に、それは確かな図形として染み込む。淡い色は小さな偽り、鋭い補色は核心的な虚偽を示す──彼が今言った「見ていない」は、完全な嘘だ。
解析は瞬時に行われる。だが能力には限度がある。ユイは同時に別の人物の発言を解析することはできない。目の前の二人の会話が交錯する中、彼女は対象を一人に絞り、男の言葉だけに集中した。文字や録音ではなく「今、この光の下で発せられる言葉」だけが解析対象だ。頭に微かな痛みが走る。能力を使うたび、夜の景色が少しずつ霞むことをユイは知っている。それは代償であり、契約のように彼女に重くのしかかる。
男の嘘を見抜いた瞬間、ユイの体内に小さな冷えが降りてきた。瞳の周縁が少し暗く沈む。普段は気づかないが、暗所の視界が確実に薄らいでいくのだ。彼女はそれを即座に押しのけるようにして、足を前へ出した。男が女に背を向け、小さな包みを見せる仕草をした。女の顔に浮かんだ焦りは読み取れる。そこにミオの匂いがあるかどうかは分からないが、何かが確かに動いている。
男はユイの気配に気づき、立ち去ろうとした。彼女は軽く呼び止める。「ちょっと、今の話、もう一度聞かせてくれる?」 声は落ち着いていた。ルミの助言がまだ耳に残る——灯りを見失うな。ユイはあえて看板のもっと近くに立ち、色の光を自分の前に集めた。その光が彼の言葉を再び露にするはずだ。
男が答える。再び朱が走る。最初よりも濃い補色だ。嘘は層を重ねていた。ユイの胸の奥で何かが締まる。彼女は自分が見たものを言葉にする。「その包みの中に、ミオの物が入ってるんだね?」男は黙った。沈黙の中で、ユイは一瞬だけ自分の心の位置を点検した。人の言うことを暴く行為は、人を裸にすることに似ている。だがミオは今、誰かの手に委ねられている。ユイは決めた。
追跡は思ったより簡単に始まった。男は通りを抜け、裏路地へと入っていく。ユイはすぐ後を追った。ネオンの光は濃淡がまばらで、所々で途切れている。彼女は看板のあるところを選んで走る。能力の条件を満たすために、常に光源のそばを通る。だが裏路地は薄暗く、彼女の視界は次第に狭まっていくのが分かった。足元の石畳の凹凸が識別しにくくなり、猫の影と人の影の区別が曖昧になる。ユイは息を飲む。これが代償だ。使うたびに、夜の中で自分の場所が遠ざかる。
追跡中、彼女は口に出さない誓いを繰り返した。名前を忘れない。自分を消さない。誰かの記憶を取り戻すために、自分が何者かを失ってはならない。だが走り続ける足は、代償と成果の間で揺れる。
角を曲がると、男は突然立ち止まり、誰かと腕を組むようにして振り返った。ユイの視界は暗がりで弱り、顔の輪郭がぼやける。追いつきそうで追いつけない。やがて男は路地の奥へと走り去った。ユイは普段なら、看板の光を使ってその男の声を追い、嘘の色が指し示す矢印を辿るのだが、背後に広がる暗闇に視力を持っていかれていた。彼女は立ち尽くす。足元の影が伸び、心の中の小さな灯りが揺れる。
「大丈夫かい?」
声が右手から割り込んだ。落ち着いた、少しざらついた声だ。振り向くと、そこには若い男が立っていた。二十代後半に見える。黒いコートの襟を立て、顔はやや疲れているが眼差しは鋭い。携帯端末を片手にしている。彼の腕には古い警察手帳の切れ端を模したような保持痕があった。ユイは瞬間的に身構えるが、その目に敵意はない。
「あなた、灯りを頼りにしてたね。看板の下で誰かを見ていた。……君は、紅原ユイ?」男は名を言い当てるように言った。驚きと警戒が同時に顔を過ぎる。だがどうやって彼は――と思う間もなく、男は軽く笑いを落とした。「済まない、名刺代わりに言うと、月城カナメ。元市警、今はちょっとした情報屋だ。あんたが看板を使って何かを見てたのは見ていた。つい、手伝いたくなってね」
ユイは固まった。見られていたのか、それとも察知されたのか。ルミの紹介か、それとも偶然か。だが追跡の時間は残酷だ。男は手早く近づき、路地の壁に貼られた古い路地地図を指差した。「その男が行った場所なら、ここに映像が残ってる。だけどカメラの生ログだ。あんたの力は録音に効かないだろう? 生で光の下で話す時しか色は出ないんだろう?」カナメの声には確かな理解があった。
ユイは短く頷いた。どうして知っているのか問いたかったが、今は情報が必要だ。「その生ログ、見せてくれるの?」
カナメは端末を差し出した。画面には薄暗い路地の映像が流れていた。男の姿、帽子の影。映像は一部がノイズで歪んでおり、看板の光がちらつく。カナメの指が一点を指した。「ここ、古い看板工房の前で立ち止まってる。店の脇道に消えた。あんたが追ったのは正解だ。ただし気をつけて。そこは古物のネオンを治す連中が出入りする場所で、表向きは職人だが裏で怪しい取引をするやつもいる。ルクシアの関係者が出入りしてることもある」
「ルクシア」その名が出た瞬間、ユイの耳の奥でジュークボックスの電子メロディが重なった。灯下で聞いた、雨の中に混じるあの断片だ。カナメはそれに気づいたらしく、眉をひそめた。「その音だ。配電の小さな同期ノイズと似てる。看板の機械までアクセスできる奴らのシグネチャーみたいなものだ。あの音が現場で鳴るときは、単なる故障じゃない。誰かが意図的に配色に手を入れた可能性が高い」
ユイは掌の中の記名札をそっと取り出した。濡れた紙片は心許ないが、そこに刻まれた文字の一部がかすかに光って見えるような気がした。カナメはそれを覗