ネオン街の探偵娘

ネオン街の探偵娘 第1話「序章」

雨はネオンを溶かしていた。白燈(しらと)市の夜は、街路を走る水たまりが看板の光を薄く引き延ばすことで成り立っている。雨粒がぼんやりとした色の帯を引くたびに、街の顔が幾重にも重なり合っては薄れていく。紅原ユイは、そんな夜のただなかで小さな疑問を追っていた。

雨はネオンを溶かしていた。白燈(しらと)市の夜は、街路を走る水たまりが看板の光を薄く引き延ばすことで成り立っている。雨粒がぼんやりとした色の帯を引くたびに、街の顔が幾重にも重なり合っては薄れていく。紅原ユイは、そんな夜のただなかで小さな疑問を追っていた。

「この辺で、女の子を見ませんでしたか?」

ユイはチープな防水コートのフードを深く被り、濡れた髪の切れ端を耳に挟みながら、商店街の安っぽいネオンの下に立つ若い男に尋ねた。男は肩をすくめ、真っ直ぐにユイを見返す。彼の顔は雨に濡れて、どこか色気のない疲労を帯びている――だが、ユイにはそれ以上に重要な情報が光のほうから降ってきていた。

看板の光が彼の髪の毛をなぞった瞬間、ユイの視界に色の波紋が浮かび上がる。ネオンの光に乗って、言葉の端が水面に落ちたときに広がる輪紋のように。淡い珊瑚色が滲んでから、ことばの中心に鋭い青緑の輪が生じた。その補色は、訴えるべき嘘の核を示していた。

「嘘だな」

声は小さいが確信めいていた。ユイは能力の名を口にすることを避ける癖があったが、自分のなかではいつもそう呼んでいる。ネオンの裁(さばき)。看板の色が、相手の発言に含まれる虚偽を視覚化する術。色の鋭さが、その嘘の重みを告げる。

「ここで会ったかって? いや、そんなことは──」

言葉が滑る。ユイの頭のなかに、補色の鋭い輪がもう一度刺さる。言い草の中で彼が避けようとした一節が、光の波紋として露骨に暴かれた。彼の口元がかすかに動いた。雨の音とネオンのざわめきが、嘘をそそのかすように重なる。

ユイは息を呑んだ。能力は厳格な制約のもとにある。相手が看板の光の下で話しているか、近接する光源に照らされている必要がある。一度に一人の言葉しか解析できない。録音も文字も過去の記録も解析対象ではない。だから今、この男の一言一言が、ユイにとって唯一の真実の鍵だった。

「その子は――ミオって、いうのか?」

男はぎょっとして、首を振る。だが、光が示した輪紋は鮮烈だった。核心を突く補色の波は、彼の言葉が重大な虚偽を含むと強く告げている。ユイは冷静に、それでも相手に向き合った。

「だったら、どこだ。どこで会った。嘘をついても無駄だ」

問いは単純だが、街の光はそれに応える。彼が答えるそぶりを見せる前に、通りの向こうで何かが動いた。黒い影がサッと端に寄り、雨に溶けるようにして消えた。その瞬間、ユイの視界に赤い斑点がちらついた。注意を逸らされた隙に、男は足を蹴って走り出した。

「くっ!」

ユイは咄嗟に追った。路面は滑りやすく、看板の光が小さなステップの目印になる。だが彼女は知っている。能力は看板光の助けを借りる必要がある。暗い路地へ逃げ込めば、相手の言葉を追えない。しかも、自分が嘘をつけば能力は暴走する──看板の光が真逆の色に反転し、周囲の視界も混乱させる。だから、追跡はいつも危険な選択だ。

男は路地へと逃げた。狭い道は広告の影を落とし、光が差す場所と暗闇の塊を繰り返す。ユイは明かりの帯を踏むようにして駆ける。彼女は一人ずつ対象を解析する習慣を持っているため、通りの人々の群れに向かって能力を走らせることはしない。目標はただ一人。だが、群衆と光の混線は彼女を惑わせる。

背中に冷たい雨が当たり、呼吸が乱れる。ネオンの光が水滴を拾って細かく揺れるたび、彼女の視界に波紋が走る。追ううちに、男は曲がり角を見つけて消えた。ユイは角を回り、路地の入口に立った。そこはネオンの陰にすっぽりと取り残された黒い穴だった。

ためらいが胸に走る。暗所はユイの最も恐れる場所だ。幼いころから、彼女は夜の闇の中で自分の輪郭を失うような感覚に襲われた。灯守(あかりもり)と呼ばれた前世の記憶の断片が夢に現れるとき、夜の中で何かが消えていく感触も伴った。能力を使うたびに、確かに代償が積み重なる。夜間視力、暗所での見え方が少しずつ失われていくのだ。光に頼れば頼るほど、暗がりは自分の場所を奪っていく。

ユイは深呼吸をした。追うべきか、引くべきか。――引くなら、ミオの手掛かりを逃すかもしれない。追うなら、自分の夜が縮む。

暗がりに足を踏み入れた瞬間、世界の輪郭が溶けた。看板の光が届かないその一歩で、ユイは視界の一部を放り出すようにしてしまった。周囲の音が急に遠くなり、心拍だけが耳元で鳴る。街灯の色の残像はそこにあるが、目の前の空気の塊は灰色のままで、顔も手の感覚も曖昧になった。

「ユイ、いるか?」

遠くで呼ぶ声がした。だが声の方向が掴めない。足元の石畳の感触すらどこかぼやけている。恐怖が息を呑む。灯守の呪いはただの比喩ではない。彼女が一歩進むごとに、記憶の縁に小さな亀裂が入る感覚があった。過去の映像や自分の名前さえ、いまここで薄れていくのではないかという錯覚。能力の代償は数値のように積算されるのではなく、実際に「現在の感覚」から何かを削り取っていく。

無理は禁物だった。ユイは路地の暗闇のなかで、己の制約を思い出す。看板の光に戻れ。光のあるところでしか彼女は嘘を裁けない。彼女は、暗闇の縁にかすかなネオンの縦線を見つけた。それは古いバー「灯下(ともしも)」の入口の光だった。灯下の赤みを帯びた小さな看板が、雨粒を弾くように揺れている。

「助けてくれ」

声が喉を出た。自分でも驚くほど素直な叫びだった。暗闇は彼女に卑怯な孤独を覗かせた。年端もいかぬ探偵見習いが、雨の影に飲み込まれかけている。そんなとき、灯下の扉が開いて、温い空気と琥珀色の光が滲んだ。女将が顔を出した。濡れた前髪を払いのけると、彼女は濃い香りとともに、どこか世話焼きの目をしてユイを見た。

「こんな夜に一人でどうしたんだい、小娘」

声は低く、しかし柔らかい。女将の顔は深い皺と同時に、母親のような包容力を備えている。彼女が放った一言で、ユイの肩の力は抜けた。『灯下』の光は暗闇を部分的に押し戻し、視界が徐々に戻る。雨に濡れたネオンの色が、再びユイの世界を塗り始める。

「追ってたんだ。男を、ミオって子のことで」

ユイは手のひらを見た。そこには、昨夜の風で剥がれたような小さな紙片が握りしめられている。薄いプラスチックのような紙で、角が焦げたように黒ずんでいる。そこにかすれた文字と、半分消えかかった刻印があった。記名札――失踪者の存在を示す札だと直感した。男が逃げるときに落としたものらしい。握りしめられた破片は、冷たく、濡れていた。

女将はユイの手をのぞき込み、紙片を指でなぞった。指先が刻印の輪郭に触れると、女将の目に一瞬、昔の影が差した。

「これは……ありがたいやつだね」

女将は扉を開け放ち、ユイを中へと促した。バーの内側は外の雨音と切り離された小宇宙だった。木のカウンターに並んだ真鍮の灰皿、アナログのジュークボックスの鈍い橙色のランプ。古い機械の匂いと、コーヒーと酒が混じった暖かさ。ユイは濡れた足元から立ち上がり、店の奥まで誘導された。

「ここは灯下。私はルミ。こっちの席で乾きな」

ルミはそう告げて、ジュークボックスの近くに座らせると、膝に掛ける古い毛布を差し出した。ユイはそれを受け取り、震えを押し殺して腰を下ろす。ジュークボックスの