ネオン街の探偵娘 第3話「第2章」
古い工房の扉は、予想したよりも簡単に開いた。錆びた蝶番の音が雨の余韻のように消え、内部からはガラス管を曲げる時の低い唸りと、長年磨き上げられた鉄の匂いが立ち上がった。外のネオンとは違う、熱を帯びた光がそこかしこで淡く揺れている。ユイは息を整え、外套の裾で濡れを払った。看板の光が頼りになる――その確信とともに、暗闇で記憶が薄れていく恐怖が胸の奥でざわつく。だが今は、前に進むしかない。
古い工房の扉は、予想したよりも簡単に開いた。錆びた蝶番の音が雨の余韻のように消え、内部からはガラス管を曲げる時の低い唸りと、長年磨き上げられた鉄の匂いが立ち上がった。外のネオンとは違う、熱を帯びた光がそこかしこで淡く揺れている。ユイは息を整え、外套の裾で濡れを払った。看板の光が頼りになる――その確信とともに、暗闇で記憶が薄れていく恐怖が胸の奥でざわつく。だが今は、前に進むしかない。
「おや、新顔だねぇ。こんな夜に若い子が一人で来るとは──」
声の主は、作業台に向かって座る中年の男だった。白いゴーグルを額に押し上げ、指先は緑のビニールテープに粘着した細い管を扱っている。唇の端には煤がつき、目は好奇心を帯びて笑っていた。男の背後、壁一面に並んだネオンの試作品は、どれも色味が微妙にずれている。赤、朱、薄桃、珊瑚のような曖昧な列が、光の厚みを競うように並んでいた。
「森下さん……だよね?」ユイは戸惑いながらも尋ねる。カナメから聞かされた名前が、ここにある匂いと色の間で、鮮やかに実体を持っている。
男は作業を止め、ゆっくりと椅子から立ち上がった。背丈は高く、肩は広い。掌に残る硝子粉が彼の職業を物語る。彼はユイの濡れた髪をちらりと見てから、目を細めた。
「森下光司だ。古い看板修理屋、というかネオン職人ってやつだ。……君、あの路地の映像に映ってた子かい? 看板の下で声を聞いてたっていう子」
ユイは首を縦に振った。カナメの端末の画面に映っていた、帽子を被った男の後ろ姿を思い出す。工房内の光はどれも手作りの色で、量産の鋭さがなく、人の手の痕が残る温度があった。ユイはその温度に一瞬、安心を覚えた。
「中へ入って。コートを脱ぎな。濡れると設備に悪いからね」森下は作業台の脇に置かれた古いソファを指差した。ユイは言われるまま外套を脱ぎ、ベンチに腰を下ろした。彼女の腕に残る名刺代わりの小さなチップが、口の中で少し小さく響く。
森下は無造作に掌を広げ、壁の一つを指した。そこには、ガラスの小さな額縁に収まった古びたネオンの装飾があった。赤い光はくすんでいて、表面には亀裂のような縦線が走っている。だがその中央、焼けた真鍮のプレートには――見覚えのある、夢の中の形があった。細い渦巻きと小さな十字。ユイが幼い頃に何度も夢で見た刻印そのものだった。
ユイの胸が唐突に鳴った。夢で見た古びた赤い刻印が、ここにある。血のように深い赤ではない。長年の煤と時間が薄めた、錆びた赤。だが確かに、その曲線は彼女の夢の輪郭と一致した。指先がひんやりするような感覚が走る。
「それは……」ユイが呟くより早く、森下は続けた。「灯守の紋だよ。聞いたことがあるかい、灯守って連中を」
ユイは言葉を飲んだ。灯守。幼い頃の夢に出てきた名が、ここで現実と重なる。胸の奥で違和感と懐かしさが交錯する。
「どうしてここに?」ユイは問い返した。喉の奥は乾いている。夜の視界が薄れる感覚が、常に彼女を追う。使うたびに失う見え方を思い、慎重になる。
森下は少し笑って、手を肩に乗せるような距離感で答えた。「これは道具でね。昔の連中が、街の灯りを守るために作った。今は飾りにしかしゃべらないが、色の出方ってのはね、職人の指先と材料で決まる。だが、紋に見覚えがあるってのは珍しい。君、何か光で特別な見方をするんだって?」
ユイは黙していた。自分の能力を説明する言葉は、いつもどこか軽薄に聞こえる。だが相手の瞳に好奇があると分かると、説明は自然と出る。
「ネオンの裁って呼んでる。看板の光の色や強度から、話している人の言葉に含まれる嘘を視覚化する。波紋の色が出るんだ。淡ければ小さな偽り、補色で強ければ核心の虚偽。だけど、看板の光の下でその人が実際に話しているときだけしか、見えない。録音には効かない。それに、一度に一人しか解析できない」
話しながら、ユイは自分の顔を見た。目の縁に疲労の影がある。森下は黙って頷き、工房の片隅に置かれた古い色差計を取り上げた。
「ふむ。色差ね。職人は微差で仕事をする。塗料の調合も、ガラスの焼き加減も、電極の位置も。君が言う通りに色の"波紋"が出るなら、俺の仕事でそれがどう影響するかは分かる。だが一つ言っとく。古いネオンはピエゾみたいな微振動を起こす。ガラス管の中の気体の揺らぎが、視覚的な誤差を増幅させることがある。君の力が敏感になりすぎると、頭が痛くなるかもしれないね」
森下は作業台の照明を少し落とし、古いネオンをわずかに暗くした。光の色がゆっくり沈み、赤い刻印の輪郭がよりはっきりと浮かび上がる。ユイの胸がまた痛んだ。能力を使うときの金属の匂い、頭骨の内側で鳴るような感覚が蘇る。
「試してみる?」森下の手はやけに穏やかだった。彼はユイが望んでいないことを強要しない。だが内心、ユイは試したいと燃えていた。ミオの手掛かりにつながるなら、危険を払ってでも一歩を踏み出したい。だが能力の代償は重い。夜間視力が一段と失われることを思うと、足がすくむ。
「私は約束を守る。自分に嘘はつかない」いつもの小さな誓いを胸の中で繰り返し、ユイは口に出した。「だけど、長くは使えない。短く、的確に」
森下は頷き、工房の奥から壊れかけたラジオを引っ張り出した。古い真空管がかすかに暖かく、ラジオは微かな電子音を吐いている。ユイはその音に、どこかで聞いた断片を重ねてしまった。雨の夜に路地で聞いた、電子の旋律。耳がざわめく。
「このノイズ、古い同期信号みたいだね」森下が呟く。「配電系の小さな振動を拾ってる。君が最初に感じたっていう音に似てる」
ユイは吸い込まれるようにその音に耳を寄せる。小さなビープが重なり、微分音のように層になっている。胸の中で何かが動いた。あの電子メロディが、ここでも鳴っているのか。偶然なのか、繋がりなのか。
「じゃあ、やるよ」森下は軽く手を叩いた。「実演は一分で済ます。俺が二言三言、あれこれ言う。君は目で見て。色の波紋が出たら教えてくれ。だが器具のせいで過敏になるかもしれない。痛くなったらすぐやめること」
ユイは頷き、工房の薄明かりの中で視線を固定した。森下が口を開く。声は低く、職人特有の滑らかさがある。彼は昔の客の話や、ネオンの修理であった小さな嘘の逸話を混ぜながら、20秒ほどの敷居の低い説明をする。ユイの視界に、始めは何も起こらないと思えた。だが二度目の言葉が宙を切った瞬間、彼女の前に薄い帯状の色が広がった。
波紋は小さな紅色の縁取りから始まり、やがて青みが差して、補色のような鋭い緑の裂け目を残した。色は人の声の高低に呼応するように揺れ、発語の母音に合わせて強弱を変えた。ユイはそれを見て、思わず声を漏らした。
「ここに、核心がある……」
言葉を出した途端、頭の中に鈍い疼きが走った。能力を働かせた代償がすぐさま反応したのだ。視界の片隅が暗くなり、夜間に頼ってきた感覚が引き剥がされるようだった。森下は慌てて作業台の照明をさらに絞り、ラジオの音量も下げた。
「痛いかい?」彼の手が無言でそっとユイの肩に置かれた。温かさが伝わり、落ち着きが戻るが、頭の奥の重みは消えない。ユイは静かに首を振った。「平気。すぐ戻る」
森下は眉を