銀河ラジオの少年

銀河ラジオの少年 第3話「第2章」

朝の光は夜鳴局の古い窓を撫でるように差し込んでいた。真空管の陰影が木製の床に細く伸び、埃の匂いがふわりと上がる。透は放送室の片隅に座り、まだ指先に残る放送の震えを確かめるようにマイクのスタンドに触れた。胸の中には昨日の代償の残響がある。母の歌の高いフレーズは、まるで凍りついた湖の底で波紋だけが動いているかのように、触れようとすると指の間から零れ落ちるようだった。

朝の光は夜鳴局の古い窓を撫でるように差し込んでいた。真空管の陰影が木製の床に細く伸び、埃の匂いがふわりと上がる。透は放送室の片隅に座り、まだ指先に残る放送の震えを確かめるようにマイクのスタンドに触れた。胸の中には昨日の代償の残響がある。母の歌の高いフレーズは、まるで凍りついた湖の底で波紋だけが動いているかのように、触れようとすると指の間から零れ落ちるようだった。

「昨夜、なにか反応は増えたかい?」舞が台所から持ってきたコーヒーを差し出しながら訊く。彼女の声はいつもより少し張っていた。結晶の保守を担当している彼女は、無骨ながら局の身体を守る存在だ。

透は首を振った。「来た。反応は来た。けど……」

舞は椅子に腰掛け、背中を丸めてから問い返す。「けど、どうした?」

「代償がある。勝手に増える。」透の声は小さく、しかし怯えを含んでいた。「あの葉書を読んだとき、誰かの灯が戻ってくるのを感じた。でも、そのあと、幼い頃の夏祭りの匂いが消えたんだ。綿飴の匂い、浴衣の結び目を直してくれた母の手のぬくもり──そういう、はっきりとした幸福の断片が、ぼわっと消えてしまった。思い出そうとすると、輪郭だけが残って、色が抜け落ちる」

舞は沈黙してから、机の上の結晶を見た。昨日録ったログを挟み込みながら、指先で慎重に金属の縁を撫でる。「結晶は昨日も震えた。放送と仕事が直結しているのは確かよ。けどそれを使い続ければ、消耗は進む。物理的な損耗よ。透、これがどれだけ繰り返されたら、局が持たなくなるか──私にも分からない」

律子は既にラップトップに向かい、画面を切り替えていた。複数の周波数ログが並ぶ。彼女の眉はいつもより固く、目は画面の隅に点滅する小さな数値に吸い寄せられている。「低周波の滴が昨夜の放送とぴったり一致している。放送の時間と受信の間に、短い低周波のパターンが入る。これが何を意味するかはまだ検証中だけれど……」律子は言葉を切った。「私は通信庁に問い合わせを入れた。報告の体裁を整えて送ったけど、返事はまだ来ていない。規模外の事象だって認識されれば、あの連中は効率性の観点で局を切り捨てかねない。そうなったら、放送すらできなくなる」

ロウは朝の市場に出かける袴を肩にかけ、ドアの前で振り向いた。彼の手には木箱がいくつかぶら下がっている。夜市で見つけた古いメーターや、切手、壊れたラジオの部品が混ざっていた。大柄な体に似合わぬ繊細さで、彼は透の肩をたたいた。「噂は広がる。昨夜のことを誰かが話せば、次の葉書はもっと増えるかもしれない。それが良いか悪いかは分からねえが、蒔かれた種がどこで芽を出すかは見ておいた方がいい」

昼が過ぎ、街は淡い空気で満たされた。透は一日中叶わぬ喪失感を胸に抱えながら、葉書の束を机の引き出しに戻した。青い染みは夜の光に似合わず穏やかに沈んでいる。律子はその染みを拡大して画面に表示し、インクの粒子と紙の繊維を解析する。粒子は確かに通常のインクではない微粒子を含んでいた──律子の眉が少し上がる。「これ、普通じゃない。古い電波結晶の微粒子に似ている。もしこれが結晶の微粒子だとすれば、葉書は結晶と何かしらの接触を持っていた、あるいは結晶の片割れが紙に触れている可能性がある」

その仮説に、透はひどく心がざわついた。自分の手で電波を繋ぎ、誰かの記憶を再確認するたびに、何かがこちらの方へと引き寄せられている。けれどその「引力」は必ずしも安全ではない。言葉にしにくい、古い機械の金属の臭いが脳裏をよぎる。まるで誰かの古い指紋が蘇るようだった。

夜が更け、街灯が一本、また一本と灯る。夜鳴局の灯りは遠めに見ると小さな灯台のようで、市井の人々はそれを不思議と頼りにしていた。午後十一時、ロウは夜市へ向かったという連絡が入る。彼は情報と物資を求めて辺境を巡る役目を負っている。律子は通信庁へ再びメールを投げ、放送ログの一部を添付して説明を試みる。「この現象は文化的価値の範疇を超えて、実体的に星系の確率に関わる可能性があります。専門の検査をお願いできませんか」──彼女は丁寧な言葉で問い合わせを入れた。返事は事務的で驚くほど冷たい。「現在、予算配分は優先順位に基づき決定されております。個別の放送局の事象に対する出張調査は現時点で承認されておりません。データは受理しましたが、継続的な監視は行いません」

律子は画面を睨み、歯を食いしばった。「効率──そう言葉だけで片付けるのね。人の声を数値でしか見ないんだ」

「彼らにとっては数だろうね」舞が小さく笑った。「だが数には心がない。私たちはその心を守るだけだよ」

夜の鐘が一度鳴る頃、透はあらためて深夜二時の放送準備を始めた。放送の条件は変わらない。午前二時、「銀河の夜鳴り」は始まる。葉書を手に取り、彼は慎重に内容を確かめる。今宵の葉書は、手触りが少し厚く、辺縁に青い染みがにじんでいた。文字は宛先の名前ではなく、短い断章のように綴られている。

「小さな丘の灯が消えました。リュートの丘の夜は、もう昔の音を忘れています。幼い手で灯を繋いだ夜を、もう一度知りたくて。どうか、あなたの声で、灯の名を呼んでください──キーナ」

読み上げる前に透はルールを自分に言い聞かせる。能力は、生放送中に手にした葉書を読み上げることで発動する。葉書に書かれた事実が「確かな思い出」であるほど効果は強く、未来を直接変えることは禁忌だ。彼は過去の記憶を照らし、存在を再確認させるだけだ──それを忘れてはならない。代償は必ず払わなければならない。代償は個人的な記憶が一つ消えること。彼はその代償を思いながら、マイクへと向かった。

「午前二時。『銀河の夜鳴り』、今宵もはじまります」透の声はいつもより低い。彼が葉書を読むと、放送は静かに世界へ溶けていった。言葉が空気に溶けると同時に、局内の空気が一瞬引き締まるのを透は感じた。律子の画面に低周波の滴が新たに刻まれ、結の手は微かに震えた。結晶の縁がうっすらと青白い光を漏らし、いつもの唸りが微妙に高まる。

「リュートの丘。キーナという名の灯を呼びます。幼い手が繋いだ灯の名を、ここで呼びます」透は葉書の文字をなぞるようにして声を重ねた。言葉が放送を経て、知らないどこかへ届いた。遠方からの短い反応が返ってくる。音声の断片、笑い声、古い民謡のようなメロディ。誰かが、「キーナ」と呟く。局のスピーカーを通じて、薄い響きが部屋を満たした。

そのとき、透はふと、目の奥に光の帯を見た。薄暗い木の床、針のように垂れ下がった光、そして小さな子どもたちが裸足で走る夏の夜。綿飴の粘り気、提灯の熱、浴衣の生地のざらつき──幻視は鮮烈だった。しかし、その直後に、透は手の平に開いた穴のような感覚を覚えた。夏祭りの匂いは一瞬のうちに薄れて、記憶の輪郭だけが残る。言葉で言えば、「祭りの名前」は思い出せるが、食べたものの甘さや母の笑い声の細部は消えた。心臓が激しく跳ね、透は言葉を詰まらせた。

「透、大丈夫か?」舞の声が振動のように届く。結は機器に手を添え、律子は画面の波形を睨みつける。ロウは外から声だけで「どうだ?」と訊いてくる。透は唇をかみ、こわごわと手の平を胸に当てた。そこには、先ほどまで確か