銀河ラジオの少年 第12話「第11章」
朝の光は薄く、焚き火の煙がまだ匂っていた。夜鳴局の一行が縫切の野営地を離れる頃、空にはいつもより低く音が重なっていた。透は肩越しに青い染みの入った小箱を抱え、腕の先でミミがそわそわと爪を立てるのを感じていた。ロウはいつもより黙って、足取りを確かめながら荷物を整えている。結は無言で真空管の箱を抱え、律子はポータブル端末をぎゅっと握りしめていた。彼らの背後では、停戦の約束が脆く揺れている気配が残っていた。
朝の光は薄く、焚き火の煙がまだ匂っていた。夜鳴局の一行が縫切の野営地を離れる頃、空にはいつもより低く音が重なっていた。透は肩越しに青い染みの入った小箱を抱え、腕の先でミミがそわそわと爪を立てるのを感じていた。ロウはいつもより黙って、足取りを確かめながら荷物を整えている。結は無言で真空管の箱を抱え、律子はポータブル端末をぎゅっと握りしめていた。彼らの背後では、停戦の約束が脆く揺れている気配が残っていた。
局に戻ると、廊下の古い蛍光灯がちらりと一度だけ痙攣した。受付の掲示板には、薄い紙が一枚、釘で留められていた。律子がそれを確認して、顔色を変える。「強制停止命令よ。通信庁の地方局から。放送の全面停止、設備の封鎖、罰則条項付き。すぐに局長の判断を仰げ、とある」
結の手が一瞬固まった。箱の中の葉書が重く透の体温を伝える。律子は小さくため息をつくと、端末のログを回して見せた。文面は事務的だが、冷たかった。「公的理由は『放送が地域情勢をエスカレートさせる恐れがある』。縫切との停戦状況を踏まえ、当局は介入が必要だと判断したらしい」
ロウが舌打ちした。「役人は数字しか見ねえ。感情も、文化も、夜の灯りも、全部切り捨てる。典型的だ」
阿弥たち縫切の代表が提示した停戦の合意文書を、律子は鷹揚に示した。「共同監視案はある。教育と保存の約束も含まれている。理屈としては、局は文化財として扱われる余地がある。だけど通信庁は—」律子の声が途切れた。
透は無言で箱の蓋を開け、青い染みが並んだ葉書を一枚一枚確かめた。表裏を撫でると、古い紙の端が指先に引っかかる。あの匂いがした。半ば腐った藍の酷薄な香りが、彼の胸の奥を鈍く刺激する。阿弥の言った「証票」という言葉が、ぐっと現実味を帯びて迫る。
「強制停止か」と結は低く呟いた。「封鎖されれば俺らは放送をしようがない。電源を切られたら、縫いは起こせない」
律子は眼鏡の縁を押し上げ、端末の画面をスクロールしながら言った。「だが、これを逆手に取れるかもしれない。通信庁の命令は法的措置を取るための文書だ。だが実行には時間の猶予がある。しかも、公開討論や市民の抗議が起これば、差し止め命令の効力は揺らぐ」
ロウが透を見据えた。「お前、どうしたいんだ。あの箱をどう使う?」
透は葉書の束を胸に抱えたまま、深く息をついた。胸の中で消えかけの記憶がチリチリと疼いた。彼は母の声を探した。昔の夏の匂いを。そこにはもう、綺麗な像は残っていない。だが言葉は出た。
「全部、集めたい。ここにあるものを、局に残っている全ての葉書を、夜鳴局で集める。全部を一斉に、──読もう」
一瞬、部屋に静寂が落ちた。律子が眉を上げる。結の指先に力が入る。ロウは少し笑ったが、その目は笑っていなかった。「おいおい、それはつまり……」
「同時に読み上げるってことか?」結が言う。
「可能性としては、染みの粒子が触媒になる。青い染みが古い電波結晶の微粒子と一致しているとすれば、それを集中して放送に重ねることで、広域にわたる縫合波を生み出せる」律子は慎重に言葉を選んだ。「ただし、条件がある。必ず生放送で、放送の機構を通して読み上げること。これは私たちが今までやってきたことの拡大であって、技術的に言えば一斉照射だ。だが危険もある。結晶の消耗を急速に進めるし、あなた(透)の代償がどれほどになるかは推測の域を出ない」
透の目がぎゅっと細くなった。彼は放送に立ち、自分の声で過去を再照射することで人々の存在を補強してきた。だが今、規模は桁違いになる。律子の顔が厳しくなる。「代償は累積する。放送で葉書を読むごとに、あなたは個人的な記憶、あるいは感覚の片鱗を失ってきた。それが一度に何枚分になるかは保証できない。最悪の場合、あなたという個人の輪郭が溶ける。さらに連続使用は電波結晶を物理的に摩耗させる。局自体が機能を失うリスクがある」
結はぐっと拳をしめた。「でも、もしこれで連鎖を止められるのなら――」
「止められるかもしれない。だけど止められたとして、俺はもう透を知らなくなるのか」ロウの声は堅かった。彼は酒場での荒っぽい笑顔を消し、真顔で透を見る。「お前はそれでいいのか? 繰り返すな。お前の記憶が消えたら、俺らはどうやってお前を覚えていく?」
透は答えず、箱の中の葉書を一枚一枚、慎重に並べ替え始めた。青い染みをまとったものを中心に、日付や宛名を揃えていく。葉書のひび割れたコーナー、消えかけた切手、誰かの震える筆跡、そこに書かれた小さな喜びや悲しみを目で辿ると、胸が詰まる。彼は以前の読み上げのあとに見た幻視の残像を、呼び起こす――パンの匂い、子どもの笑い、夕焼けの波止場。これらは葉書が持つ「確かな思い出」だ。律子の理屈が正しければ、こうした思い出が多ければ多いほど、回復の確率は上がる。
「それだけじゃない」律子が端末に表示された古記録を引き出した。「壁に刻まれた文字があるだろう。あなたが読むとき、その文字の周波数と共鳴する。壁文字は『記憶の保存』を意味していると古文書は言っている。放送で声が文字と共鳴すれば、本来の意味は強化される。すなわち、葉書の集合、壁文字、電波結晶が同時に作用すれば、縫合は一層強くなる」
阿弥が訪問時に見せた箱の染みは、縫切の古い儀式で使われた証票でもあった。阿弥は停戦の時に「共同行使」を提案したが、彼女の中にも強硬派がいることは透も知っている。縫切の内部は割れている。阿弥は協力的だが、同じ組織の中には破壊を求める声が残る。停戦が脆いのはそのためだった。もし強硬派が葉書を焼けば、計画は頓挫する。もし通信庁が物理的に局を封鎖すれば、放送はできない。
「で、実行するならどうする?」結が問う。「法的には止められてても、手はあるか?」
律子は目を閉じて考えた。「方法は二つ。ひとつは公開で政治的に対処して差し止め命令を撤回させる時間を稼ぐこと。もうひとつは、局の設備を稼働可能なままにして密かに放送することだ。だが後者は法的リスク、倫理的責任の両方を伴う。私個人としては、公開で時間を稼ぐ努力をしながら、同時に最低限の準備を進めるべきだと思う。準備が整えば、もし封鎖の前に合意が崩れた場合に、私たちは即座に行動できる」
ロウは薄笑いを浮かべたが、その目は鋭かった。「密かにやるなら、俺が回収しに行く。辺境の個人郵便網はまだ機能してる。あっちこっちに置かれてる葉書を集めてくる。強硬派が気付く前にな。アルバイト代は渡すぜ、結晶を守るために使いたいんなら、金を惜しむなよ」
結はため息をついた。「金の問題じゃない。結晶は既に限界に近い。もし一発で何十通を読んだら、消耗は計算不能だ。阿弥たちが協力してくれて証票を預けてるのは好都合だが、局の心臓部が破壊されたら何も残らん」
阿弥が黙って立ち上がり、窓の方へ出て行った。背中越しに彼女の言葉が聞こえた。「強硬派は明日動く。彼らは私たちが葉書を束ねるのを嫌う。だがもし本当にあなたたちが全てを救いたいのなら、証票は我々が守る。停戦は脆弱だが、今日一日は持たせることができる」
透は箱を抱えて局の放送室へ入った。古いマイクやフェーダー、針飛びを起こすテープデッキがいつもと同じ