遺失物課の鑑識員 第8話「第7章」
朝の光は、虹環駅のガラス屋根を透かして冷たく差し込んできた。電車の合図音と人波のざわめきが薄く届く遺失物課の窓際で、紬は封印した紙片を白い証拠袋の中で眺めていた。紙片の縁には黒い焼け跡があり、そこに押された小さな印章の形がまだ残っている。昨夜の男の声が耳の奥で繰り返される。君たちが見たものは、金で買われる——
朝の光は、虹環駅のガラス屋根を透かして冷たく差し込んできた。電車の合図音と人波のざわめきが薄く届く遺失物課の窓際で、紬は封印した紙片を白い証拠袋の中で眺めていた。紙片の縁には黒い焼け跡があり、そこに押された小さな印章の形がまだ残っている。昨夜の男の声が耳の奥で繰り返される。君たちが見たものは、金で買われる——
「紬さん、朝礼行きますよ」葵が端末を抱えてドアを押し開けた。疲れを隠そうとする彼女の声はいつもより堅い。画面には昨夜の採取リストと、封印した物品のIDが整然と並んでいる。
石神が出迎えると、彼の背中はいつもより重く見えた。彼は紙の束を一瞥してから紬に向けて低く言った。「今は結果を出す。私情は許されない。だが、我々は職務のために動け。それだけが、ここを守る方法だ」
紬はうなずいた。だが昨夜の代償が胸に刺さったままで、そのうなずきに確信はなかった。凪が勢いよく入ってきて、紬の横に立った。血色は悪いが、そこには昨日と同じように守りたいという熱が宿っている。
「姐さん、わかった。今日は幻市の小屋に行く。俺、場所突き止めたんだ。見つけたとき、小さい声で笑ってた人がいた。奴ら、単なる取引所じゃねえぜ」凪の声は興奮を抑えきれない。彼女はまだ拳に包帯の跡が残っている。紬はその手元をちらりと見て、自分の痣に無意識に触れた。左手の掌側にある古い痣が、ひんやりと皮膚の下で反応する気がした。
「情報は?」葵が端末を差し出す。スクリーンには地図と三つの経路が表示され、赤いマーカーが小さな倉庫を指していた。倉庫は駅からそう遠くない、旧構内の外れにある廃倉庫群の一角だ。凪は昨夜の退避の後、味方のコネクションを使って追跡していたらしい。
「仲買人の一人がここを使ってる。常連は少数で、外部の目を避けるために夜だけ開いてる。だがサンプルを置いてたのを見た。焦げ切符の山も」凪の声は静かになった。「そこに行けば、なにか掴める。もしくは……奴らに見つかる」
石神が顎を引いた。「葵、外部との連絡は最小限にしろ。警備は我々の掌握下で動け。鳴海には内密で手を借りる。だが紬、お前は現場で能力を使うな。私情判定で触れる余地を作るなよ。代償は取り返しがつかん」
鳴海は書類を抱えたまま、部屋の片隅で小さく笑ったが、その目は厳しかった。「旧設備の図面があれば、倉庫の通信ルートと物理構造が把握できる。私が昔使っていたルートの一つに似ているわ。私情で首を突っ込むな、と言ったのは私だが、仕事なら力は貸す」
紬はその言葉を胸に刻む。鳴海の過去は曖昧で、しかし頼れるときがある。だが頼るたびに、紬の内側の穴は痛んだ。失った記憶がその場の温度をひっそり奪っていく。
——現場は想像よりも小さかった。薄暗い倉庫の扉は無造作に開かれ、内部には簡易のテーブルと折り畳み椅子が並んでいる。段ボールの山、ビニール袋の束。匂いは古い機械油と焦げた紙の香りが混じる。凪が先導し、紬と葵、石神、鳴海はそれぞれ役割を分担して静かに中へ入った。
凪は戸口で耳を澄ませ、合図を出す。誰もいない。だが足元の段ボールに置かれた小さな袋が、緩慢に震えているのを紬は見逃さなかった。袋には小さな透明の窓があり、中には細かく焦げた切符の断片が詰まっていた。印が押された紙片ほどの大きさで、複数の欠けた輪郭に焼け跡が残る。
「偽の再生サービスをやってるみたいだ」葵が小声で言った。彼女は手袋をはめ、慎重にサンプルを取り上げる。ラベルには商品IDと若い女性の名が手書きで添えられている。紬の指先が涼しい感触に触れた瞬間、痣がぴくりと疼いた。皮膚の下で、どこかかすかな電流が走るような感覚。
「紬、触るな」石神が低く言う。その声は本能的な止めだった。紬は手を引っ込めたが、遅すぎた。彼女の指先が袋の縁にかすかに触れてしまったのだ。条件は満たされた——触れること、そして30秒以内の決断。だが彼女は決して私情を以て再生を使ってはならない。
胸の奥で、紬の能力が反応する。見るか、見ないか。もし見れば、それは誰の「最も大切にした瞬間」か。もし彼女がそれを私情で判定したなら、過去に続く別の記憶をまたひとつ失うだろう。だが採取中の物証を正しく理解するためには、持ち主の記憶が必要である——仕事としての理由はある。境界線は、薄く揺らぐ。
鳴海が紬の肩を軽く叩いた。「紬、仕事だ。私情は横に置け。再生は必要ならば正式な手続きのもとでやる。ここでは証拠として取るだけよ」
紬はゆっくりと息を吐いて手を引いた。だがその瞬間、痣の辺縁が薄く光り、周囲の空気が一瞬だけ濁ったように感じた。葵が端末を差し出してサンプルを読み込む。化学反応の波形がスクリーンに流れる。偽再生用の化学物質——いくつかは市販の鎮静剤系の残留が見えた。安価な装置と簡略化された「再生体験」を作る材料だ。
「偽造品だな。記憶そのものを保存しているわけじゃない。感覚のトリガーや断片的な映像を組み合わせて、客に『再生』を体験させるタイプだ。だが凝ってる。焦げ跡のパターンは同じ業者の焼き方だ」葵の声は冷静だが興奮は隠せない。データの破片が、幻市流通の一端を指している。
テーブルの奥に、古びた携帯端末が一つ転がっていた。起動はしていないが、SIMスロットには灰色のチップが挿されている。紬が手袋越しにそれに触れようとしたとき、鳴海が手を伸ばして先に取った。「それは私が。解析は私の方でやる」彼女の声には命令ではなく、協力の意思がこもっていた。
倉庫の奥から、金属の足音が近づいた。扉の隙間から差す光が揺れ、誰かが影を曳いている。凪が静かに腰を下ろし、先に出た仲買人の痕跡を追うように周囲を警戒する。扉の向こう側で、若い男の笑い声が断続的に聞こえた。会話はかすかで、だが断片が届いた。
「……新しい仕入れだ。上からの支払いは済んでる。焦げ切符は例のやつだ、取引は終わりだよ」低い声が答える。「奴ら、あの旧名プレートの件で焦ってる。だからこれでも足りる」
紬の胸がぎくりとした。旧名プレート——それは、駅の古いプレートのことだ。鳴海の写真と設計図の中で薄れていた文字列。昨夜の男の紙片と、ここに置かれている焦げ切符の山が繋がる可能性。痣の辺りがまたひんやりと疼く。
「出るぞ」石神がひそりと指示を出す。扉を蹴破るような行動は取らず、彼らは陰影を使って倉庫の入り口を押さえた。凪が一歩前に出て扉を開けると、そこには細身の男が半身を乗り出していた。男の目は鋭く、驚きや恐怖ではなく、嘲りが滲んでいる。
「警察の真似事か?」男は嘲笑した。「遺失物課さん、こんなところに来るとは。上の者に報告しておくといい。ここはもう手のつけられない場所だ」
男の言葉を遮るように、石神が前に出た。「名乗れ。ここに何をしている」
だが男は笑って首を振り、扉の向こうへと後退した。その瞬間、扉の外側から二、三の足音と、逃走を援護する明るい声が聞こえた。男は仲買人の一味を呼んでいる。石神の眉が硬くなる。プレッシャーが瞬間的に変わった。
「分散する」石神が低く命じた。「凪、左翼を封鎖。葵、証拠は確保。紬、鳴海、私についてこい。追うな、追うな。記録を優先する。再生は持ち主が現れたときに行え」