遺失物課の鑑識員 第25話「第23章」
旧北口の時計は十一時を指していた。駅の外灯が薄い輪郭を作り、風が古いプレートの縁をなでる。人の気配は昼の喧騒の名残りを残しておらず、群衆は遠くに流れ、報道のライトは既に別の噂を追っている。そこに立つと、時間が音を失ったように感じられた。紬は封筒から取り出した焦げた切符を指の腹で確かめる。煤の匂いが掌に残る。痣がまた、じんと疼いた。
旧北口の時計は十一時を指していた。駅の外灯が薄い輪郭を作り、風が古いプレートの縁をなでる。人の気配は昼の喧騒の名残りを残しておらず、群衆は遠くに流れ、報道のライトは既に別の噂を追っている。そこに立つと、時間が音を失ったように感じられた。紬は封筒から取り出した焦げた切符を指の腹で確かめる。煤の匂いが掌に残る。痣がまた、じんと疼いた。
「ここにいるのは三人、四人ってところか」石神が低く言った。声に無駄な感情はなかった。彼の背後には葵の小型端末が暗い光を放ち、凪は入り口を向いて背を張るように立っている。鳴海は少し距離を置いて、周囲の暗闇をじっと見つめていた。彼女の目は過去の写真に写る光景を探すような確かさを持っている。
紬は深く息を吸った。胸の奥に、前回の代償で失った記憶の穴がまだ冷たく口を開けているのを感じる。あの穴は、いつでも彼女の決断を慎重にさせる。もし──また私情で再生を行えば、次はさらに大きな何かが消える。鳴海が言ったように代償は累積するのだ。だからこそ、彼女は今、仲間たちと共にここにいる。単独で動けば、罠は容易に彼女の好奇心を剥ぎ取りに来る。
「規則通りだ。触れるのは差押えられた証拠の下で、裁判所の立会いがある時だけだ」石神が言う。それは言葉というより、彼の背負う職務だった。紬は頷いた。誰よりも彼女がその規則を重んじている。自分が失った過去の欠片を取り戻すために、能力を私的に使う誘惑は常にある。だがその代償は、公共を壊しはしないか。彼女はそれをまだ、選べなかった。
旧北口の影が、突然大きく裂けた。足音が──足音だけが、空気の中に速く入り来た。黒いフードを被った者が数名、ゆっくりと現れた。彼らは手に小さな光源を持ち、手際よく周囲を照らす。視線がひとつに集まる先に、淡く光るテーブルが置かれていた。そこにはさらに数枚の焦げ切符、そしてテレビモニタのようなものが並んでいる。モニタには断片的な文字列が流れ、見慣れた暗号タグがちらついた。
「ようこそ、遺失物課の方々。ここで会えるとは光栄だ」低い声が空気を切った。声の主は表に出ない。代わりに、テーブルの上のモニタに映された人物の小さな像が動いた。映像は意図的に粗く、輪郭だけが人の形を留めている。紬の視界の端に、大槻という名がちらと表示された。痣が痛んだ。
「あなたたちの用心深さは評価するよ」画面の人物は冷笑じみた調子で続けた。「だが、我々はあなた方が追うものを見ている。あなたが触れば、その一瞬を皆に見せることができる。公共的にやるなら、私たちの出所を暴けるかもしれない。だが私情で再生すれば——君自身の記憶がまた一つ減る」その言葉は脅しでもあり、皮肉でもあった。紬は胸がつぶれるような感覚を覚えた。
凪の手が、微かに震えた。彼は拳を閉じて、誰にも見せないほどの決然を顔に作る。「つまるところ、ここで立ち止まっているのが正義の側だと言い張るのか?」凪は身を乗り出す。苛立ちが透ける。彼の目にわずかな血管が浮いたとき、紬はその顔の後ろにある過去の影を見た。彼は昔、拾ったものを売ってで生き延びてきたという。拾得癖──それが彼をこの場に導いたのだ。彼が今ここで、何かを抱えていることを紬は理解していたが、その詳細はまだ聞いていない。
「君たちは公的な手続きを齟齬させたいだけだろう。差し押さえを装って重要な証拠を奪うつもりだ。私情で判定させて、彼女を誘導し、代償を喰らわせる」鳴海の声は冷たい。歯切れがよく、痛みを含んだ静けさだった。「ここでしか触れられないように仕組んでいる。君たちの狙いは個人に対する破壊だろう?」
画面の像が笑った。「鳴海さんね。あなたのことは興味深い。だが我々はプロだ。目的達成のためには手段を選ばない。君たちがどう出るか見物さ。時間は限られている」
「ここで手を出すんじゃない」石神は言った。「我々は記録を取り、証拠を押さえる。だが今は動かない。葵、後方の回線を切れ。お前の解析をここに流すんじゃない」
葵は無言で端末を操作し、遠隔の通信を遮断する。静かな光が消え、モニタの像は一瞬ブレた。だがそれで相手の意図が消えるわけではない。相手の警告は、彼らを個別に引き離すためのものだった。
それから、罵声とともに群れが飛び出した。黒いフードの一人が凪を狙って走る。凪はテーブルの向こうへ飛び出した。彼は躊躇いなく相手を押し切り、代わりに切符を一枚つかみ取った。切符はほのかに熱を帯びているように見えた。凪の顔に、一瞬だけ子供のような笑みが走る。だが次の瞬間、背後から来た刃が凪の腿を切りつけた。切符は彼の手をすり抜け、路面に落ちる。凪は呻き、片膝をついた。
「離れろ!」凪が叫ぶ。彼の声は格好良く、だがあまりにも生々しかった。石神と鳴海が一斉に動き、相手を押し返す。葵はスマホを握りしめ、怪しい通信の痕跡を追いながら救援を要請した。だが人数は相手の方が多く、彼らは分断され始める。罠は、紬を隔離するために凪を囮に使ったのだ。
凪は床に落ちた切符を見て、顔色が変わった。彼は手を伸ばし、血に濡れた掌でそれを拾い上げた。切符の煤は血に混ざり、赤と黒が滲む。紬は本能的に駆け寄ろうとして、石神に掲げられた手に阻まれた。
「紬、下がれ!」石神の声が近かった。だが紬の指先は痣の熱に導かれるように震え、凪の手にある切符に吸いつけられそうになる。鳴海は嗚咽にも似た短い声を上げ、凪の元へ走る。紬は胸が裂けるような吐息を漏らした。もし今触れてしまったら──私情か公共か。凪が自らを犠牲にした瞬間を見てしまったら、彼女は私情を抑えきれるだろうか。彼女の指は、焦げ跡の縁に僅かに触れた空気を辿る。
凪は笑った。血の口元から、ぎゅっと歯を食いしばり、顔の片側に痛みと誇りの混ざった表情を作った。「……こんなときに泣くなよ、紬。俺のことは気にすんな。お前らは行け。ここでおとなしくしてたら、奴らの思うつぼだ」
「凪!」鳴海の声は怒りで震えた。だが凪は首を振り、ぐっと拳を固めた。「いいから。お前らは証拠を持って逃げろ。石神さん、葵、紬さんを頼む。俺は……俺が足止めをする。拾得癖の借りを返すよ。昔、俺が売ったものの一つがここに繋がってる。あいつらに顔が利く。だから、俺が行く」
その言葉に、紬の胸の奥で何かが崩れた。凪の顔には少年時代の影が横切る。彼は拾ったものを売ることで生を繋ぎ、情報を集めることで自分の居場所を作ってきた。今、自分の過去が敵を呼び寄せ、その罪を自らの身体で償おうとしている。紬の指先は、もう切符に触れなかった。鳴海が凪の脈を確かめ、石神が命令を下す。
「葵、端末で逃走路を確保しろ。連絡は絶やすな。紬、貴様は我々と共に動く。私情で触るな。いいな」
紬は言葉を探したが、出てこなかった。代わりに、彼女は凪の肩に手を置いた。痣が凪の血の匂いを敏感に感じ取り、奥に波紋を立てる。凪は一瞬目を細め、紬の掌をぎゅっと握り返した。確かな連帯がそこにあった。だが時間はない。相手の男たちは復讐を息にしていた。
「行くぞ」石神の指示に、紬は首を振って立ち上がった。葵は急いで小さなケースを凪に渡し、中から止血用の包帯を取り出す。鳴海が低い声で指示を出す。外界へ救急を呼ぶこと、報