遺失物課の鑑識員 第17話「第15章」
朝の光が低い角度で遺失物課の窓を横切った。薄い埃の層をなでるようにして、机の上の書類や解析端末のスクリーンに小さな金色の線を落とす。紬はカップのコーヒーに湯気を立てずに視線だけを傾けた。昨夜、凪が持ってきた断片的な情報が頭の中で反芻される。倉庫の名前、夜の集合時間、そして──自分が触れるべきではないという、いつもの自戒。
朝の光が低い角度で遺失物課の窓を横切った。薄い埃の層をなでるようにして、机の上の書類や解析端末のスクリーンに小さな金色の線を落とす。紬はカップのコーヒーに湯気を立てずに視線だけを傾けた。昨夜、凪が持ってきた断片的な情報が頭の中で反芻される。倉庫の名前、夜の集合時間、そして──自分が触れるべきではないという、いつもの自戒。
インターホンが鳴った。受話器を取る前に石神の声がして、紬は入り口のドアが開く音を聞いた。遺族だった。軍帽の持ち主の弟と、年老いた女性が二人。軍服の古い写真を持っていた手は震えており、彼らの目は紬を探すように彷徨っていた。
「霧島さん、先日はありがとう。あの帽子のおかげで父は、少し笑ったんです」と男は低く言った。声に引きずられるようにして、年配の女性が小さな紙の包みを差し出す。「あの時の資料がまだあるかもしれないと、家の倉庫を探したら出てきて……駅の古い記録、もしかしたら、古い図面か何かが。あなた方なら役に立つと聞いて」
紙包みには、ボロボロに折れ曲がったメモと一枚の写真が入っていた。写真は雨ににじんだように色あせ、若い兵士が軍帽に顎を当てている。写真の裏には鉛筆で小さく「昭和五十年・旧北口倉庫」と書かれていた。紬は指先をそっと引く。触れる前に、いつもの規則が頭の中で鳴る。触れてから三十秒。私情での再生は禁じられている。だがこれは公共の調査のための資料という体裁であり、遺族にとっての慰めを保障するための行為だ。境界線は細い。
「これは……旧北口、つまり旧構内の一部ですね。駅の再編で消された場所です」と石神が言った。短く詰まった息で、彼はポケットから古い名刺を取り出す。「私に、ひとつ頼れる旧友がいる。もう七十を越えるが、現役時代は施設保守の責任者だった。図面の保管場所を知っているはずだ」
紬は頷いた。石神の提示には何の驚きもない。石神の人脈は遺失物課の見えない支柱だ。葵が端末の画面をサッと開き、写真の位置情報をメタデータから引っ張ろうとする。だが写真は古すぎてデジタル痕跡はなく、文字だけが頼りだ。
その日の午後、石神の旧友──園部という名の男が遺失物課の小さな会議室に来た。背中を丸め、灰色の作業服に染みがある。掌は年相応にがさついていたが、眼差しはまだ鋭い。園部は持参した小さな木箱を開け、中から紙の束を取り出した。埃と古いオイルの匂いが部屋に溶ける。
「保存はしてあった。消える前に、古い設備図を別に分けて倉庫に置いたんだ。金庫じゃない、ただの箱だ。だが、ここにあるものは公式の図面の写しだ。旧名のプレート位置も記してある」と園部は静かに言った。
紬はその図面を覗き込む。紙は黄ばんで、細かい線や文字が擦り切れている。だが旧構内の平面図は確かにそこにあり、細い破線で示された天井の位置、かつての保守用通路、そしてプラットフォーム端に沿って添えられた小さな四角──旧駅名プレートの位置がマークされていた。紬の心臓はほんの少し、早鐘を打った。伏線Cがここにある。旧名プレートが、事故や再開発と繋がる鍵であるという感触が、手のひらを通じて冷たく伝わる。
葵が図面をスキャンして端末に取り込み、拡大した線を指でなぞる。「この部分です。旧北口の荷捌き場から、保守用通路を通って直接当該プレートのある位置に行ける。再開発の際に埋められたか隠されたかしたんでしょうが、地図上の座標は一致します。倉庫のある場所と繋がる可能性が高い」
園部は古びた指で、ある一点を指し示した。「ここだ。昔は壁に埋め込んであった。作りは頑丈でね、銅板に刻んだ古い文字がほどこされていた。再開発の時に撤去されたはずだが、どこへ行ったかは知らねえ。だが、記録は残しておいた。こうしておけば、いつか誰かが見つけてくれるかもしれないと思ってさ」
紬は手袋を外さずに図面に一歩近づいた。左手の痣が微かに疼いた。紙の繊維に触れることはできるが、直接的な触覚によって能力が作動する可能性を考えると躊躇いがある。触れる対象が遺失物である場合、三十秒のルールが即座に彼女を縛る。だがこの図面は公共資料であり、解析行為自体は問題ではない──紬は自分にそう言い聞かせた。だが、痣が疼く理由は単に触れた物理的刺激のせいだけではない。何か、彼女の前世に繋がる回路が図面の線に反応しているように感じられた。
「霧島さん、触れますか?」葵の声が静かに訊ねる。
「今はやめておく。デジタル化して、まずは解析で場所を特定しよう」と紬は答えた。その言葉は職務として正当だったが、心の奥底では別の声が囁いていた。図面の四角いマークは、彼女が事故の前に見たものと似ている。似ているだけ──それだけが救いでもあり、苛立ちでもあった。
園部はしばらく黙ってから、さらに紙束をめくった。「実はこれだけじゃねえ。保守の日誌や小さなメモもある。作業員の名前が書いてあるページがあってよ……この写真の人物の名に似たものがあるかもしれん」
石神は軽く息を吐き、園部の手を握った。「ありがとうございます。これらは証拠と同じです。正式な手続きで公開し、持ち主のために保全します。やり方は我々に任せてください」
遺族の瞳が少しだけ和らいだ。だが紬の胸には別の重さが積もっていく。鳴海が言っていたことが頭をよぎる──古い写真の人物と、旧名プレート、再開発関係者の名簿が重なることがあり得る、という示唆。鳴海はどこかで、旧資料と写真を結ぶ別の断片を持っていると彼女は伝えていた。だが鳴海は裏稽古のように動く人だった。公開するには彼女の言葉だけでなく証拠が必要だ。
その夜、凪からの連絡が入る。倉庫の周囲で偶然見つけた古い保守用通路の入り口――扉は錆び付き、ほとんど崩れかけていたが、そこには小さな焼け跡のような模様が残っていたという。紬の心臓が、浅く跳ねた。焼け跡。切符の焦げ跡と同じような形状をしていると凪は言う。無造作に置かれた鉄の破片と擦れたような銅の破片の間に、古い銅板の欠片があった。そこには、確かに小さな黒い斑点がいくつもあった。
「写真か何か、証拠になりそうなものは?」紬は問い詰めるように訊いた。
「まだだ。扉は閉ざされてる。だが中に入れば、旧構内の保守通路に通じている可能性が高い。お前さん達の図面の通りなら、プレートのあった場所に到達できるかもしれん。だが単独じゃ危ない。監視があるかもしれないし、幻市の連中が警戒している可能性もある」と凪は応えた。
紬は深く息を吸った。夜の冷気が窓の向こうで駅を泳いでいる──通勤客の足音、遠くで鳴る列車のブレーキ音。彼女は古い手帳を引き出し、代償で失った記憶の断片の名前を指で辿った。そこに並んだ空白が、彼女を掻き立てる。だが今は公共性を守る。その線を越えれば、「私情で判定」したとして代償を支払うことになる。失った記憶は戻らない。穴になる。そしてその穴は、誰かの大切な瞬間をも消してしまうかもしれない。
「いいか、凪。単独はダメだ。入るなら二人以上で、連絡回線を切るな。証拠があれば、まず葵に送って。無理をするな」と紬は命じた。声には硬さがあった。命令は職務として正当だったが、命じる口調の奥には仲間を想う保護欲が滲んでいる。
葵が端末を操作してい