山岳救助犬の訓練士

山岳救助犬の訓練士 第9話「第8章」

老松の影が長く伸びる尾根の脇、雪は薄く凍りつき、ヘッドライトの光が銀色の結晶を細かく刻んでいた。冷たい空気の中に、遠くの谷からときおり風のうなりが伝わってくる。澪は手袋の指先で小さな金属片が入ったビニール袋を確かめた。包装の端に残るインクの黒ずみが、夜の静けさに重く響く証拠のように思えた。

老松の影が長く伸びる尾根の脇、雪は薄く凍りつき、ヘッドライトの光が銀色の結晶を細かく刻んでいた。冷たい空気の中に、遠くの谷からときおり風のうなりが伝わってくる。澪は手袋の指先で小さな金属片が入ったビニール袋を確かめた。包装の端に残るインクの黒ずみが、夜の静けさに重く響く証拠のように思えた。

「ここからだ」田島が地図とコンパスを見比べながら短く言った。彼の声に迷いはなく、軍隊のように簡潔だ。小野寺は懐中電灯をさらに低く構えて、雪面のわずかなへこみを示した。赤羽はハクを優しく抱き上げ、息づかいを耳に当てる。犬の胸が荒く動いていた。ミカやルカの失踪と事故のあと、犬たちの精神は敏感に過剰反応するようになっている。

澪は深く息を吸った。犬の肩甲部に掌を当てるときの感覚は、いつもながらに生々しかった。能力の起動条件――犬が対象と心的接触を5秒以上持っていること。今のハクは、老松の根元を熱心に嗅ぎ、雪の下の匂いを伝えている。被覆の焼けたような匂い、合成樹脂の甘さ、わずかに混じる油の匂い。それらが犬の嗅覚フィルターを通じて澪の内部へと流れ込んでくる。掌を置くのが遅ければ、断片は消えてしまう。彼女は躊躇なく触れた。

視残がはじまる瞬間は、いつだって刃のようだった。世界がモノクロームの粒子へと崩れ、犬の視点で切り取られた映像が爪の先の冷たさのように澪の内側に刺さる。最初に来たのは、低い角度から見た雪面の連なり。白と灰色の帯に、埋められるように人影が動く。人影の手が黒い筐体を押し込み、固い音が土と雪の咬合部で鳴る。犬は口先で覆いを引き裂き、金属の端が露出する。作業員の息づかい。嗅覚と聴覚が混ざり合い、鉄の熱の匂いと人の汗、そして淡い薬品の匂いが重なる。断片は粗く、不確かだが方向性は明瞭だった。

「気圧センサー群だ」澪は震える声で言った。彼女自身が言葉の選択をしながら、残像をつなぎ合わせてゆく。映像はフラグメントを飛ばし、それでも全体像を示した。複数の円筒状センサーが等間隔に埋められ、細い電線が根元をなぞるように奥へ伸びている。ところどころに小さな円錐形のデバイス――振動発生器の残骸が見えた。振動装置の側面には、焼けた痕と薄く剥がれた塗膜。犬の嗅覚が「人の手」「ゴム」「燃えた金属」をひとまとめにして伝える。その合成された匂いが澪をさらに深く押し込む。

だが同時に恐怖が襲った。視界がノイズに満ち、鼓膜を締め付けるような吐き気が波打つ。心拍の高まりが体の中心を揺らし、過去の恐怖が波紋のように広がる。犬の痛みや恐怖――それが、澪のなかで渾然一体となる。額に冷たい汗がにじむ。赤羽がすぐ横で「いい、もうやめて」と囁いたが、澪は映像を掴み続けた。作業員の足取り、埋設の手順、電線の配列――それらがこの夜に持ち帰るべき黄金の情報だった。

「作業員は三人だ」澪が言う。言葉は断続的で、時折遠くなる。「一人は低い声で『三本目を奥に』と言っている。工具の金属音、スパナか。電線は木の根元を回って尾根の向こうへ伸びている。振動装置は、同調周波数を与えれば雪層の剥離を誘発するタイプだ」

小野寺の手がすっと動いた。懐中の端末に情報を入力する。その表情にわずかな興奮が走るが、澪にはそれが成功への歓喜なのか、焦りなのか判別がつかない。田島は険しい顔で斜面を見上げ、地形を確かめる。風が一瞬強まり、雪面の薄い層が舞ってくる。斜面の傾斜角、積雪の節理。すべてが現実の危険を拡大させる。

「座標をくれ」田島が低く言った。「コアはどの高さだ、どの方向だ」

澪は手を引かなかった。触れている時間は、犬の負荷が増す。赤羽はそれを見つめ、唇をかんだ。能力の条件と代償を彼女たちは知っている。視残は有効だが、犬と澪双方に負荷を残す——それが、白梟の暗黙のルールだ。澪は五秒、十秒と計測器のように時間を数えた。ハクの体温が彼女の掌に伝わる。犬はわずかに震え、目を細めた。犬の目に映るものが澪の内面に割り込むと、彼女は自分の輪郭が薄れていくのを感じる。

「二点三八度、尾根上の稜線から西に十七メートル。根元のくぼみから電線が入る」澪が答えた。声がまた揺れる。「センサーは直列に四本、振動発生器は二台。制御ユニットはもっと下、木立の中の小さな掘っ立て小屋か、金属のボックス。起動スイッチには外部からの周波数コントロールを受けるための受信機が付いている。周波数……三二四ヘルツ付近、可変で雪崩の共振点に合わせられる」

小野寺は端末で音響の想定周波数を表示させ、画面上の波形を指で撫でる。彼の目は光っていた。技術者としての本能が、これまでのデータの断片を結びつけていく。

「誘発……か」赤羽が吐き捨てるように言った。「やつら、本当にやってたのか」

「やってたんだ」田島の声が低く響いた。「計画的じゃないか。パターンが一致する。いくつかの事例で斜面が『自然発生的』に見せかけられていた理由がわかった」

だが、勝ち誇る時間はない。ハクの呼吸が荒くなり、耳が垂れる。赤羽がすぐに犬を支える。澪は掌を離すと、目の前の映像がふっと消える。代わりに脳の奥で冷たいノイズが残り、数秒間は何が実在で何が残像なのか区別がつかなかった。吐き気が口の端から立ち昇り、視界に縞が走る。彼女は膝をついて、雪に押し付けられるように背を丸めた。

「やりすぎだ」赤羽が鋭く言う。「これ以上は犬に耐えさせられない。分散共有で順番にやるべきだ。あんた一人に全部背負わせるわけにはいかない」

澪は唇を震わせながら首を振る。「分散でやる。だが、ここで引き返したら向こうが証拠を改竄する。俺たちは物的証拠を取らないと、裁判になっても勝てない」

田島が澪を見て、顔を曇らせる。彼の矜持が、ここで試されている。行動の継続はチームと犬の安全とどちらが重いのか。彼はペンライトで周辺を照らし、斜面の安定を確かめる。

「俺が行く」田島が言った。「澪、おまえは犬と赤羽のところで待て。小野寺、機材の回収と記録を急げ。ここは危ない。俺が手短に確認してくる」

その言葉に、澪は驚いた。田島が自ら斜面へと足を踏み出すのは珍しい。彼は常に計画と安全を最優先にする男で、無謀に突っ込むタイプではない。澪は田島が自分の代わりにリスクを取ることで、彼がどれだけこのチームに責任を感じているかを理解した。だが同時に、胸の奥に鋭い嫌悪が湧く。犬の代わりに自分が――という選択ができない現実。視残を持つ者として、何を守るべきかを問われる瞬間だった。

田島はロープとピッケルをさっと用意して、斜面を下り始める。雪は脆く、彼の足跡は一歩ごとに崩れ、薄く滑る。風がまた強まり、木の枝が軋む音が背後から聞こえた。彼が降りてゆく先に、半ば埋まった円筒が黒い縁を覗かせているのが見える。澪の胸がぎゅっと締め付けられた。もしあれが本当に振動装置なら、手に触れた瞬間に証拠の輪が広がる。だが、それはまた危険でもあった。

小野寺が近づいてきて、耳打ちした。「赤羽、澪、分散でいこう。俺がハクを引き受ける。澪は短時間だけ触れろ。五秒以内に離せ。データは写真とログで残す」

赤羽は瞬時に頷き、犬を差し出した。澪は手を伸ばし、再び掌を肩甲部に当てた。今度は短く、二、三秒を三回に分けて行う。