山岳救助犬の訓練士 第10話「第9章」
夜がいよいよ深く、風は尾根をすり抜けるように尖っていた。彼らは樹林帯を抜け、最後の薄い稜線を慎重に越えた先で、コントロール室と思しき人工の穴へと続く雪に覆われた坑道の入口を見つけた。木製の扉は外側から雪で半ば埋まり、脆い錆がその縁を縫っている。田島が低く唸り声を上げ、手早くロープとライトを調整する。小野寺は端末を覗き込み、赤羽は犬を脇に抱き寄せて息を整えた。澪は手袋をはめたまま、自分の掌をぎゅっと握り締める。心拍が乱れ、遠くで何かがきしむような音がする。
夜がいよいよ深く、風は尾根をすり抜けるように尖っていた。彼らは樹林帯を抜け、最後の薄い稜線を慎重に越えた先で、コントロール室と思しき人工の穴へと続く雪に覆われた坑道の入口を見つけた。木製の扉は外側から雪で半ば埋まり、脆い錆がその縁を縫っている。田島が低く唸り声を上げ、手早くロープとライトを調整する。小野寺は端末を覗き込み、赤羽は犬を脇に抱き寄せて息を整えた。澪は手袋をはめたまま、自分の掌をぎゅっと握り締める。心拍が乱れ、遠くで何かがきしむような音がする。
「ここから先は、観測点の真上だ。人為的な改変が濃い」田島が囁く。「静かに、でも早く。余計な接触は避けろ」
彼らは一列になって扉を押し開け、冷たい空気と腐海の匂いが鼻腔を刺した。内は思ったより広く、低い天井に配線束が這い、壁には古い計器と、僅かに残る電子表示のランプが点滅していた。埃と氷が混ざった空気の中、遠くでかすかな電流音が生きている。小野寺は懐中電灯を器用に操り、カメラを取り出した。
「監視はここで止められる。だけど、ログは上の制御室に集約されるはずだ。そこに行かないと、本当の証拠は出せない」彼は画面を覗き込みながら言う。「ここにも怪しい端子はあるが、ほとんど死んでる。やつらは冗長化してる。上だ。上へ上がる」
階段は凍りついていて、足を上げるたびに金属が冷たく喉を刺す。途中、赤羽がハクの足首を確かめ、犬の舌が白くなっているのを見て眉を寄せた。犬たちは訓練の表情を崩さず、澪の掌に触れられるのを待っている――だが彼女はその瞬間を怖がってもいた。視残共有の条件は単純だ。掌で肩甲部を触れ、犬が対象に五秒以上心的接触していること。だがその単純な条件は、長時間になると恐ろしい代償をもたらす。犬の疲労は残像を断片化し、澪の精神を削る。倫理規程はそれを禁じていた。赤羽が何度も訓練所で言っていた言葉が耳に刺さる――「無闇に能力を使うな。犬と自分の回復を最優先に」。
だが今、彼女には選択肢がなかった。扉を抜けた先にあるのは、ただの装置の塊ではなかった。そこに記された日時、場所、関係者の名簿――それこそが裁判で不可欠な証拠であり、犬たちに繰り返し危険を強いる構造を断ち切る鍵でもある。もしも彼女が情報を取り損なえば、企業は改竄し、責任を逃れるだろう。五秒を守るだけでは足りない。澪は息を吸い、決意を固めた。
「ルカ、お願い」赤羽が静かに言い、ハクの代わりにルカ──訓練所で一番視残の強さが出やすい犬を澪の前に出す。ルカは澪を見上げ、鼻先で彼女の手を触れる。信頼の光が瞳にある。澪は手袋越しにその肩甲部へ掌を置いた。金属製の冷気が伝わる。
「五秒以上だ。数えるぞ」小野寺が呼吸を殺しながら端末を構える。田島が周囲を見張る。赤羽は犬の耳を軽く撫で、心拍と呼吸数をモニタに接続した。犬の疲労値は高かったが、ルカはまだ応えていた。視残共有の接点が生まれる。澪の世界は急激に狭まり、モノクロの断片映像が視界の端から流れ込んだ。
最初は細い線のようなもの――作業員の足跡、手袋、暗いグローブの隙間から光る紙切れ。匂いが先に来る。油と冷たい金属。次に断片的な会話が浮かぶ。日本語の短い断片、やけに短い笑い声、赤いインクで「X日」と書かれたメモの端。視残のルカの映像は断片ごとになだれ込み、繋げばそれが「計画」なのだと澪は理解した。だが断片は鋭く、切断されるごとに澪の胸に刃が立った。五秒、十秒が過ぎる。小野寺はタイマーを睨み、短い間隔で掌を離させるように促す。だが澪は掌を離せなかった。情報はまだ手の届くところにあり、彼女はその全てを見たいと貪欲に思った。
「短く、断続で」赤羽が叫ぶ。「ルカを──!」
「いや」澪が言った。声は弱いが堅い。「ここで断ったら間違いなく奴らは改竄する。俺に時間をくれ。最後まで見る」
田島の顔が曇る。彼の矜持が燃え、周囲の安全を優先する命が叫ぶ。だが彼は澪の目を見て、そこにある確信を読み取った。小野寺は機器を抱え、端末のログを待つ。赤羽だけが反応して唇を噛んだ。犬の負荷がモニタに跳ね上がる。訓練所の倫理規程は彼女たちに牙をむいた。だが今、澪はノイズの向こうに真相の輪郭を見ていた。選ぶべきは、犬と自分の保全か、世の中の多くを守ることか。
掌を離すことはできなかった。澪は深く息を吸い込み、視残共有を延長する決断をした。条件を守るという形式だけは崩さないように、彼女はわざと断続のリズムを引き伸ばし、ルカの肩甲部を離すことなく、同時に犬の負荷を観察して呼吸を合わせた。ルカの瞳がわずかに潤む。犬もまた、仲間を守るために踏ん張っているのがわかった。視界はモノクロのストリップ状の映像が連続し、やがてある場面で固まった。
——室内の大きなコンソール。複数のモニタが薄く点灯し、中央にある赤いランプが小刻みに点滅する。机の上には封筒と、封がされていない資料の束。ファイルの表紙に印刷されたロゴは見えないが、角にある刻印ははっきりと円形の中に「K-17」と記されていた。人物が一枚の用紙にペンで日時を書き込み、手渡す。手の甲に付いた薄い油脂模様と、一瞬光った腕の裏に刺青のような識別コード。次に、誰かが無線機で短い周波数のテスト音を流し、周波数表に赤いラインが引かれる。犬の残像が震え、そこに「声」が乗った。高い、だが明確なリズムで繰り返される音節――「……K、点一、三、くり返し」。
その瞬間、澪の全身が波のように震えた。恐怖の感覚が内側から噴き出し、吐き気が鋭く襲う。視界のノイズが薄い刃のように彼女を切り裂く。数秒前と同じ感覚だが、今は違った。恐怖は単なる情緒ではなく、配された周波数と一致していた。あの「声」は誘発装置の制御周波数とリンクしていたのだ。犬の残像は、被害者の最期の感覚だけでなく、機械の動作についても何らかの情報を織り込んでいた。
「受信周波数だ」小野寺が息を漏らす。端末のスペクトラムには、確かに赤い線と一致するパルスが表示されている。「これがコントロールのトリガーだ。やつらは特定周波数で複数の装置を同期させる。すべて記録してる。澪、しっかり!」
だが視残はさらに深いところへ引き込もうとした。ルカの瞳は暗転し、映像は白黒のスローモーションへと変わる。彼らが操作する装置の制御室の設計図、関係者の名簿、そして何より――赤い丸で囲まれた一行の文字。「X日」その隣に記された座標。澪はその座標の輪郭をかすかに嗅ぎとる。冷たい鉄と湿った土の匂いが混ざり、母の歌の断片のように幼い記憶の尾根が薄く揺れる。
その瞬間、視界が真っ白に割れた。身体が冷たく震え、耳鳴りが洪水のように押し寄せる。記憶が、どこかのページが抜け落ちるように、澪の内部から欠けていった。子どものころに見た尾根の中の一点、母が歌った最後の一節の中間がぽっかりと空いている。瞼の裏でその音の続きを探したが、白い空白だけが残った。吐き気と同時に、頭の中に黒い影が動き、何か重要なピースが抜け落ちたことを告げた。
「離せ!」赤羽の声が現実へと引き戻す。田島が素早く手を伸ばして澪の腕を掴み、彼女を引き離す。掌を離した瞬間、視界は断ち切られ、冷たい空気が肺へと戻る。澪は膝をつき、雪の上に額を当てて吐いた。目の前