山岳救助犬の訓練士 第13話「第12章」
朝は、予報よりも鋭く来た。風が東に振れたのは夜のうちのことだったらしい。小屋の前で、息を吐くたびに白い霧が細かく裂け、尾根の稜線は鉛色の刃物のように空を切っていた。田島がモニターを覗き込み、短く息を吐く。雪面計は気圧の急落、風速の増大、斜面の敏感化を示していた。X日――本来は予定されていた起点――はたしかに早まっていた。
朝は、予報よりも鋭く来た。風が東に振れたのは夜のうちのことだったらしい。小屋の前で、息を吐くたびに白い霧が細かく裂け、尾根の稜線は鉛色の刃物のように空を切っていた。田島がモニターを覗き込み、短く息を吐く。雪面計は気圧の急落、風速の増大、斜面の敏感化を示していた。X日――本来は予定されていた起点――はたしかに早まっていた。
「時間はない」田島が低く言う。彼の声は無駄を削ぎ落とした工具の音だ。装備の最終チェック。アンカーの打ち込み、スノーソーの刃の点検、プローブの長さ確認。小野寺は雪上に置かれたタブレットを指先で操作し、先ごろ複製した装置ログを暗号化して送信する準備を進めていた。赤羽は犬たちの心拍計を確かめ、ルカとミカの首元を優しく撫でる。澪は自分の掌の冷たさを感じつつ、肩甲部に触れる準備をしていた。
「条件は確認する」赤羽が言った。「犬が当該者に五秒以上接触していること、そして私が犬の生理状態を『使用可』と判断すること。条例と私の倫理で決める。逸脱はさせない」
澪は頷いた。訓練所の倫理規程は、能力を救命のためだけに限定している。だがここで問題は別のところにもあった。刺激はこの上なく強くなりつつある。犬の疲労、風の不安定さ、そして何より――誘発装置の残響が尾根全体を不安定化させる可能性だ。選択は単純ではなかった。だがその先に人が埋まっているなら、彼女には選ぶ余地など残されていないように思えた。
登攀は展開が速かった。田島は先頭で雪面にアンカーを打ち込み、二本目のロープを確保しながら慎重に歩を進める。斜面は30度を越すが、ところどころ雪面の強度が変化している。田島は雪の層を指で叩き、音の違いで弱層を探る。小野寺はドローンを低空で飛ばし、雪面の模様を赤外線で読み取る。澪はルカの肩甲部に手を置いた。ルカの被毛は湿っている。犬の筋肉の緊張が彼女の掌を通じて伝わる。
「五、六秒は触れてる。匂いを追ってる」澪は声を殺して呟く。ルカは斜面の斜交線に沿ってゆっくりと走った。犬の鼻先は雪の表面をなぞり、時折立ち止まっては前肢をかけて地面を掘る。それは遭難者の呼気か、体熱か、あるいは金属の僅かな匂いか――犬が嗅ぎ取ったものの断片だけが、澪の手から向こうへと渡る。
掌の接触を得ると、視残が始まる。映像はいつものようにモノクロで、断片的なカットが音とともに押し寄せる。雪の上を転がる黒い靴底、胸元に寄せられた赤い布切れ、薄く凍った息の白い線。だが今回は規模が違った。映像が重なる間に、恐怖が波として澪へ来た。音が歪み、内部から凍えるような熱と冷たさが交互に襲う。視界に入るものが瞬時に過去へ侵される感覚。咽喉の奥が締め付けられ、吐き気と耳鳴り。恐怖は情報でもあった。誰かが最後に叫んだ言葉の断片、「根元」「三十度」「左に折れ」。匂いのフレーズと数字が結合して、救出のヒントになる。
澪は最初の指示を出す。「左斜面、五メートル下。雪面の割れ目を探して。プローブを深く、パルスで探れ。三十度以上の角度で崩れているはずだ」
田島は即座に反応し、二人を固定しているアンカーポイントを更に補強する。「小野寺、左側のガイライン伸ばせ。赤羽、犬のスタンバイ位置を一つ下げて、回収ルートを確保だ」
作業は連鎖的に動いた。プローブが雪に刺さり、音が変わった瞬間、二重の衝撃音が尾根上で鳴る。遠方で地鳴りが増し、雪の表面が小さな波紋を描く。斜面の一部が音を立てて崩れ始める。企業が何らかの振動発生器を作動させたのだ。小野寺のタブレットに表示されたログが赤く点滅し、そこには不規則な振幅のデータと未完成のタイムスタンプが並んでいた。彼は眼鏡越しにそれを見て、指を震わせる。
「起きた」小野寺が短く言った。「制御外だ。複数の発振が同期してる。もう止められない」
風が、雪を帯びた刃となって彼らの肌を切り、尾根は一つの大きな身体のように動き始めた。雪の塊が小さな塊となって切れ、河のように滑落していく。視界は白に満たされ、音は断片に切り崩される。だがそこで、澪は歩を止めなかった。ルカの肩に手を置き続け、視残を連続で繋げる。犬は数秒ごとに澪の触れを返すかのように鼻を震わせて前進する。触れられた肩から、犬の匂いと痛みが、直接に澪の体内へ入り込む。
恐怖が積み重なっていく。個々の残像は今や一つの地図となって展開される。埋没した人々の最終運動軌跡、雪に残された足跡の曲線、木の幹にこすれた赤い布片。恐怖の声は具体的な座標をくれる。澪はそれを繋ぎ合わせ、地形の上で救出線を描いた。言葉にならない音が、彼女の内側で反復する――「根元、穴、二人」「右の小さな溝から出る」「母さん、寒い」――それは怯えと同時に、生への最後の抵抗の言葉だった。
「そこだ!」澪が叫ぶ。声が白い空間に吸い込まれ、しかし田島には届いた。彼は即座に鋭い判断を下し、数人の隊員を小さなサテライト穴へ投入する。ロープが滑り、滑車が作動し、雪を掘る手は素早く動く。短時間で、人の声がかすかに戻ってきた。嗄れた呻吟。雪の下の空洞から、かすかな暖気が上がってきた。赤羽が懐から毛布を取り出し、緊急処置を指示する。
救出は、その散発的成功と同義でしかなかった。次々と穴が見つかり、次々と人間の腕が突き出される。血色のない顔、凍えた体。澪は視残で次の座標を引き当て続けた。犬に触れては離し、触れては離す。条件は守られていた。犬が対象に接触しているという事実が、視残の受け皿を作る。だが代償は確実に回ってきた。吐き気は深まり、視界には常にノイズの筋が走るようになる。時折、子供の歌の断片が喉元に浮かんでは消え、澪はそれが自分のものなのか、誰かの最後だったのか判然としなくなる。
「澪、やめろ!」赤羽が突然叫ぶ。彼女は犬の首を掴んで引き離そうとした。ルカは小さく唸っていた。赤羽の表情に、怒りと恐れが混じる。「もう限界だ。犬が危険域に入ってる。君も――」
澪は押し返すようにして言った。「ここを逃したら、彼らは死ぬ。私は—私は行ける。触れていれば位置が分かる」
赤羽は一瞬、櫛の歯が噛み合うように思案した。倫理規程、犬の保護、チームの役割。だが目の前で泥だるまになっている子どもを見て、彼女は唇をかんだ。赤羽は赤いラインのある注射器を取り出し、ルカの筋肉に素早く栄養補給を入れる。「ならば回路を短くしろ。断続共有。三十秒以上は許可しない。私が計る」
小野寺が無線を握りしめ、スタビライザー用のコードを指示する。田島は雪のエッジを押さえ込み、救出の足場を固めた。彼らの動きは、筋書きのない交響曲のように精密だった。澪は断続的に視残を繋ぎ、短時間ごとに情報を吐き出した。噛み合った情報が救出網を形成する。雪崩はさらに大きなうねりを作り、尾根の一部があらかた滑落したときには、数十名分の命を救い出していた。
最高潮の瞬間が訪れた。尾根の一角で、大きな亀裂が轟音とともに走り、雪が帯状に飛び散る。澪はルカの肩に手を置き、全てを受け止める覚悟で閉じた。視界がモノクロの断片から、一瞬のうちに補色の洪水で満たされた。澪と犬の視界が「合う」感触があった。空気の震え、雪の結晶が光を反射して小さな宝石のように見え、凍えた呼吸が温度の線となって目に映る