山岳救助犬の訓練士 第12話「第11章」
夜は深く、山小屋の板張りに冷たい空気が浸透していた。窓の外では時折、風が稜線を舐めるような低いうなりを立てる。ランプの光が室内の書類と犬の息づかいを等しく照らし、布団や毛布の折り目に影を落とす。澪はルカの側に座り、掌を肩甲部に当てたまま、ただその呼吸のリズムを数えていた。赤羽が近くでモニターに視線を籠め、田島は外の見張りを買って出ている。小野寺は端末を膝の上で操作し、証拠データの暗号化を何度も確認している。全員がそれぞれの役を背負い、静かにでも確かな緊張を共有していた。
夜は深く、山小屋の板張りに冷たい空気が浸透していた。窓の外では時折、風が稜線を舐めるような低いうなりを立てる。ランプの光が室内の書類と犬の息づかいを等しく照らし、布団や毛布の折り目に影を落とす。澪はルカの側に座り、掌を肩甲部に当てたまま、ただその呼吸のリズムを数えていた。赤羽が近くでモニターに視線を籠め、田島は外の見張りを買って出ている。小野寺は端末を膝の上で操作し、証拠データの暗号化を何度も確認している。全員がそれぞれの役を背負い、静かにでも確かな緊張を共有していた。
「犬は疲れてる」赤羽が低く言った。声には医者としての冷静さと、飼育者としての怯えが混じる。「触れる時間と回数は厳守する。俺が許可を出すまでは使わないでくれ」
「分かってる」澪は小さく首を振った。記録シートに視残の開始時刻と終了時刻、犬の心拍、呼吸、筋緊張の数値を記しながら、彼女の手は無意識にルカの背中の筋を確かめる。肩甲部に触れる感触は、訓練で刷り込まれた行動そのものだ。条件――接触すること、犬が対象に五秒以上触れていたこと――それが満たされれば視残は来る。しかし、代償がある。恐怖は澪の中へ入ってくる。短ければ頭痛と吐き気。長ければ、もっと深い何かが侵される。
外から、ふとした物音が聞こえた。乾いた雪を蹴るような、複数の足跡の音。田島が立ち上がり、静かに戸を開ける。窓から差す月光に、人影がふたつ、木立の間に溶け込む。仕事着ではなく、作業グローブをした手、異物封入のバッグ。企業側の工作員だろうか。小屋の外で何かを操作している足音が、こちらの耳に刺さる。
「来た」小野寺の声は震えなかったが、画面のログは赤く点滅した。「監視装置でこいつらの足取りを追ってる。間違いない、尾根の南側から侵入してきた。パックの中身が動いてる」
「証拠を取られたら終わりだ」田島は短く息を吐いた。「止める。できるだけ静かに、だ」
赤羽はルカの横でその胸を撫で、呼吸数を再確認した。「もし外で接触が起きたら、犬はすぐにここへ戻す。触るのは俺だ。澪、君は断続共有だけを許されている。五秒――それ以上は許可しない」
澪はうなずき、腰を浮かせて立った。外は冷気で全身が締め付けられるようだ。小屋の扉は音を立てずに閉められ、彼らは影となって木立を行く。雪面は硬く、足跡はすぐに凍り付く。澪の手はルカのハーネスに触れ、犬は目だけを細めて前を見据えた。彼の耳の後ろにある古い傷跡が、月光に白く浮かぶ。
南側の小さな尾根へ回り込むと、地面には作業用のスパイク跡と、そこに置かれた小さな箱の残骸が見つかった。金属片、ポリマーの破片、そして印字の残る包装片。小野寺が懐から取り出したライトを当てると、薄く残った文字列が浮かび上がる。企業名の略称と、ロットナンバー。彼が息を呑んだ。
「これだ」小野寺が囁いた。「首輪の刻印と一致する番号のサプライロットだ。表面処理のシリアルナンバーも合う。物理的な繋がりがこれで……」
その瞬間、向こうから低い声がした。人間の語りではなく、無線の抑えた断片音。箱の中に仕組んであった小型の気圧センサーの一つが、まだ微かに電波を出している。作業員たちは装置の調整をしているのだ。目の前で何かが起動する準備に入っている。
「彼らは装置を置きに来ているのか」田島の声が低くなる。「ここで何をする気だ」
「誘発用の補助モジュールだ」小野寺が端末を持ち上げ、近接ログを走らせる。「振動発生系の周辺ユニットだ。遠隔で起動できる。もしこれを複数箇所に設置されたら……」
澪は掌をルカの肩甲部に置いた。五秒、十秒と、犬の皮膚の暖かさを感じながら、彼女は条件を満たした。ルカは確かに、そこにある「対象」に何らかの心的接触を持っていた。犬の鼻が雪の香りを拾い、筋肉が微かに固まるのを感じる。視残が来る。今回は断続ではなく、短時間の集中だ。赤羽の目が鋭く光る。彼女は赤羽の許可を得ていない。だが、目の前で装置が動き出せば多くの命が危険に晒されるかもしれない。
「短く、澪」赤羽の声が耳元で聞こえる。「五秒以上だ。記録するんだ。犬の疲労値を、今の身体反応を。取り過ぎるな」
澪は息を詰め、意識を内側に閉じた。視残はまずモノクロの断片映像として現れた。雪面に横たわる黒い線、作業員の手、手袋の縫い目。金属のにおい、油のにおい。だが同時に、その中には「声」が混じっていた。男の短い呟き、取扱コードのような単語。断片的に、「—X—」「尾根中央」「三十度」といった単語が耳に入る。音は濁り、一部が重なってしまっている。それでも座標のような数列が幾つか判然と浮かんだ。
五秒。十秒。感覚は鋭く、だがその先にある手触りは冷たかった。恐怖が澪の中へ差し込む。じわじわと胃がひりつき、視界の端にノイズが走る。犬の痛みが波紋となって彼女へ伝播するように感じる瞬間、子どもの歌の断片がまた喉元で立ち上がった。あの欠けていたフレーズの輪郭――母の低い声で歌われていたもの――が、今ここで微かに重なる。それはまるで、過去と現在の痕跡が重なってしまったかのようだった。
「離せ、澪!」赤羽の声がひどく近く、彼女は掌を振り払われる。ルカは後退し、口元に雪をつけて息を吐いた。赤羽は速やかに犬の心拍を測り、ノートに記録する。「ノイズが入ってる。視残の強度が高い。今のは長かった。すぐ休ませる。君、分かってるな?」
澪はふらつきながらも頷いた。だが掌を離した後の虚無は深かった。さっき聞いた座標の断片が、断層のように胸の内で切断されている。肝心の最後の一節——尾根の中心の一点を指し示す数字——が欠けている。欠片は幾つも繋がったが、核心はまだこちらに渡されなかった。
そのとき、影が後ろから近づいてきた。田島が若い工作員を押さえつけ、無線機を掴んでいる。別の工作員が雪の茂みから装置の部品を抱えて走ってきた。明らかに二手で来ている。一瞬の緊張の後、静かな小競り合いが起きた。田島の腕が岩肌に擦れて小さな血の筋が光る。声は出さず、手だけで行動を制する。工作員の一人が床に倒れ、息を切らしている。小屋の前は、一種の混沌が生まれていた。
「確保だ!」田島が低く命じる。「装置を奪え。可能なら解析用のログを持ってこい」
小野寺は震える手で装置の破片を集め、端末で即席のログをクローンし始めた。赤羽は負傷者の手当てをしながら、犬のケアを最優先にする。澪は動けずにいる自分を責めた。視残がもたらす情報は強力だが、それはいつだって代償を伴う。しかも今回の視残は、彼女に欠落を意識させるだけで、決定的な数字を与えなかった。
工作員のパックに縫い込まれていた一つの金属片を、小野寺が懐に入れていたライトで照らすと、微小な刻印が浮かび上がった。そこには古い首輪と同じロットナンバーが刻まれていた。澪の胸の内で、何かが堅くなる。刻印は偶然ではない。企業の匂いが、ここに確かにある。
「これでつながった」小野寺は言葉少なに端末を操る。「刻印、ロットナンバー、包装……全部、同じソースだ。法廷で使える形にする。だが今は撤退しろ。ここで長居すれば、装置を起動される危険がある」
田島は辺りを見回し、まだ潜んでいる可能性がある場所を素早く示した。「もっといる。彼ら