ラジオ劇団の音響師

ラジオ劇団の音響師 第18話「第16章」

夜は重く、海からの風が研究センターの外壁を撫でるたびに金属の薄い唸りが差し込んだ。透は車の窓越しにその音を聞きながら、祖父のラジオの軋みと同じ質感を思い出した。真空管が温まるときの、微かな共振の匂い。だがそれは今、遠くでベースのように低く鳴っているだけで――指先にあった旋律の端が、またぼやけて消えかけていた。

夜は重く、海からの風が研究センターの外壁を撫でるたびに金属の薄い唸りが差し込んだ。透は車の窓越しにその音を聞きながら、祖父のラジオの軋みと同じ質感を思い出した。真空管が温まるときの、微かな共振の匂い。だがそれは今、遠くでベースのように低く鳴っているだけで――指先にあった旋律の端が、またぼやけて消えかけていた。

「時間は押してる。夜更けの巡回が一回分増える前に入れる」三浦が端末の地図を示す。画面の青い点は、建物の出入り口や監視カメラの位置を小さく示していた。彼の指が走る音も、機材の固いクリック音も、透にはいま一層鋭く響いた。これは能力の条件を満たす「声」がある環境だと、透は無意識に探し始める。閉ざされた空間、金属とコンクリート、そして人の気配。それらが重なれば、残響は形を成す。

「中田さんは外で待機。表向きは視察団、裏は――必要なら引き上げる合図を出す」三浦の声に、隣で小さく頷いたのは中田だった。彼は灯りのほとんどないバンの運転席で、腕組みをしながら窓の外を睨んでいる。彼の存在は安心でもあり、過去の影でもあった。透はその混在する重さを耳で測った。

春野と河合は、この行動に直接関わらない。劇団と局の顔として、彼女たちは安全圏で情報を受け取り指示を出す役目を担っている。今夜は彼らを危険に晒すわけにはいかない──その判断は全員に共有されていた。だが、決定的な証拠をこの手にするためには、誰かが壊れやすい現場に踏み込まねばならないのだ。

三人は建物の裏手、資材搬入口の薄い鉄扉に回った。鍵は旧式で、三浦の工具箱から取り出した段差の少ないバンプツールで簡単に解かれた。鉄の匂いが混じった扉の隙間が開くと、冷気と機械油と、かすかなテープの腐った匂いが混じり込んだ。それは、古い録音機器が長年蓄積した時間の匂いだった。

内部は想像よりも広かった。低天井の廊下、そこかしこに配されたラック群、そして一室だけ白く光る実験室。机上には波形を示すプリント、ヘッドフォン、古いスチール録音機が無造作に置かれている。薄暗い蛍光灯が、一瞬ごとに点滅する。透の耳はそのたびに小さく反応した。点滅のリズムは、かつて解析した合図の一部と重なっている気がしたが、確証はまだ得られない。

「そこだ」三浦が指差す。実験室の一角、ファイルボックスとラベル付けされた引き出しの中から、一冊の綴じられた名簿が見つかった。金属のバインダーに刻まれた文字は簡潔だった。「被験者一覧」──カーボン紙のような粗い紙の上に、個人名とともに備考欄があった。透は息が止まりそうになるのを小さく呑み込んだ。

ページを繰る指先が震える。名簿の列に沿って、地方の人間の名が並ぶ。多くはイニシャルや匿名で処理されている。だが、白い余白に小さく書き込まれたフルネームがあった。島村光子──確かに、あの老婆の名前だ。さらに下には「直人」と漢字で、少年の名がある。透は指先が冷たくなる感覚を覚えた。守る対象が、そこに印字されている。

「嘘だろ……」中田の低い声。彼は顔をしかめ、そこから視線を外せない。三浦は慌ててファイルをスナップし、端末に名簿をスキャンしていく。静かな実験室で、紙のめくれる微音がやけに大きかった。

ここで透は、能力の使いどころを即座に見定めた。名簿は証拠だ。物的証拠を持ち出すことが第一だが、保安の巡回ルートが変わっている。尾行や障壁を読むために、現在この建物で交わされている「生の声」を使って、安全な脱出経路を確保しなければならない。能力の条件は満たされている。閉ざされた空間、金属の壁、そして人の声──近くの換気ダクトから微かに漏れる会話の断片が、透の耳に届いた。二人の男が階下で話している。足音。金物の擦れる音。これらすべてが余音となって残響を作る。

だが同時に、透の心の中に「精査使用」の黄信号が立つ。ここで誰かの過去や深い記憶を無断で読み解くことは、彼自身が禁じている行為だ。彼の倫理ははっきりしている。だが、仲間の命と被験者の安全がかかっている。紙の上の名前が示す現実は、待ったを許さない。

「透、どうする?」三浦が小声で問う。機材を抱えつつも、彼は透の動きを窺っていた。

透は一拍だけ息を止め、余音を拾うために顎を引いた。能力は「実際に発生した人の声、あるいは声が反射・残響を生む閉鎖空間」で働く。彼は目を閉じ、耳だけで空間を測る。階下の二人。片方は緊張、もう片方は苛立ち。喋り方の節回しに不安定なアクセントがあり、緊張は短い咳や手の震えとして現れる。会話の内容までは確実に聞こえないが、感情の輪郭は掴める。ここで透は「現在」の情動だけを読むと自分に言い聞かせた。過去や心の核にある記憶には触れない。目的は経路確保だ。

能力を起動すると、空気が薄く震えるように感じた。残響が視界の端に波形として走る。声の余韻が、金属の壁を滑り、床下の配線を伝って彼の内耳に小さな絵を描いた。そこには階段の位置と二人の巡回のリズム、次に来るであろう扉の開閉音。透はそれを一つずつ頭に落とし込み、脱出の最短距離を計算する。使うたびに代償が積み重なることを知っている。耳鳴りの隙間に、また一つ旋律の断片が消える予感があった。

だが決断は早かった。「行くよ。薄い方の廊下を通って、サービス階段で上げる」透は声を出さずに唇だけ動かした。三浦はうなずき、外套の縫い目に隠した小型の録音ドングルを握り直す。中田は背中を押すように透に近づき、重い声で言った。「俺が扉のところで止める。お前ら、抜けたら急いでこっちに合図を。無理はするなよ」

階段に向かう足跡は、透の予測とほぼ同時に階上から降りてきた。心臓が喉元で踊る。廊下の角を曲がると、薄暗い通路の向こうに、白い作業着の男が二人、机の上で何かを確認していた。彼らは気づかなかった。透の足は音を立てずに動き、彼の呼吸は意図的に浅く整えられた。金属の手すりに触れる指先は冷たく、呼吸の余白に小さく鳴る耳鳴りが混じった。

だが最後の瞬間、二人の男の一人が満員のように喉を鳴らし、小さな笑い声を漏らした。その瞬間、透は思考よりも早くその振幅を感じ取った――恐れと期待が、わずかな混合であることを。彼は能力を一段深く入れた。経路を読むだけでなく、「伴走する心的反応」を押さえつけるためだ。これは、彼が普段禁止している「深読み」に触れかねないラインだった。だがそのラインを越えねば、仲間と被験者の命が危ない。

透は短く、自分に言い聞かせる。今は救命だ。過去を暴くためではない。自分の手で人の夜を守るためだ――それだけを理由にして、彼は深く潜った。

深読みに伴う代償は直ちに始まった。耳鳴りが鋭く尖り、彼の記憶の一角が引き裂かれる。祖父と共に台所で歌ったはずの小さなフレーズが、指先から滑り落ちるように消えた。口の中で反芻できるはずの音像が、まるで別の雑音に飲み込まれていく。痛みは脳ではなく、骨の奥で震えた。透は唇を噛み、しばらくその場で立ち尽くした。三浦と中田は気づかなかった。彼らは薄暗い影の中で仕事を続けている。

「今だ」透は吐き捨てるように小さく合図した。三浦がスナップして引き出しからUSBを引き抜き、名簿のデータを吸い上げる。手慣れた動作だ。端末の画面に名簿の複製