ラジオ劇団の音響師 第17話「第15章」
朝の光が窓のブラインドを薄く揺らすころ、稽古場の一角は即席の解析室に変わっていた。机の上には紙の束、蛍光ペンの色が混じったメモ、三浦が持ち込んだポータブル・スペクトラムアナライザの小さなディスプレイが並ぶ。コーヒーの湯気が静かに立ち上り、機材のファンの低いうなりが室内の位相を支配していた。
朝の光が窓のブラインドを薄く揺らすころ、稽古場の一角は即席の解析室に変わっていた。机の上には紙の束、蛍光ペンの色が混じったメモ、三浦が持ち込んだポータブル・スペクトラムアナライザの小さなディスプレイが並ぶ。コーヒーの湯気が静かに立ち上り、機材のファンの低いうなりが室内の位相を支配していた。
「まずは目を通してくれ」三浦が薄い紙を重ねながら言った。紙はコピーではなく、彼が夜を徹して抜き出した研究ノートの断片だった。行間にびっしりと書き込まれたロジック、波形の手描き、マーカーで塗られた「あやしい」との書き込み。ページの端には小さな名札のように「情動曲線設計」「合図同期プロトコル」と赤く見出しが入っている。
透はその見出しを指で辿った。文字が浮かぶたび、耳鳴りが微かに振幅する。彼は深呼吸をひとつしてから、慎重にページをめくった。図には放送に組み込まれる短い高調波列の時間配置、語りの強弱を表す振幅包絡、さらにそれらを受信側の心理的応答曲線にマッピングする記述があった。平たく言えば、ある音の配列を時間軸に沿って配置すれば、聴く人の情緒の上昇下降を意図的に描ける──それが「情動曲線設計」だった。
「要するに、台本や演出に合わせて周波数と強度と語りのテンポを微調整することで、視聴者の感情をあらかじめ計算通りに動かすってことか」春野が隣で要約して、顔を曇らせた。
「それだけじゃない」三浦が画面を指して続ける。「合図同期プロトコルはネットワークだ。短い高調波列を各放送回線で微妙にずらして流す。個々のスピーカーや受信環境の位相差が重なって、地域ごとに似た情動曲線が形成される。まるで波形のコンダクターだよ」
河合がメモ帳に素早く書き込む。彼女の目にはすでに法的な課題が走っていた。「設計という言葉が出ている以上、これは偶発的なノイズではなく、綿密な計画ですね。証拠として成立するかどうかは、出所と改ざんの有無が重要になる。君、これをどこで手に入れた?」
三浦は肩をすくめる。「公的には出てこない資料だけど、外部の研究者の個人サーバから引っ張ったものだ。暗号化された注釈が付いていて、ある程度の解読でここまでは読めた。もっと深掘りすればプロトコル全体のフローも出てくるが、それには時間と、触らない方がいい部分がある」
触らないほうがいい部分。透はその言葉を胸に抱えた。彼の中で、能力を巡る誓いが静かにざわめく。精査使用――知られたくない過去や思考を無断で抽出すること。自らが設定した禁止は、仲間も守らねば意味がない。書類の中には泉堂蓮の名前が断片的に記されているページがあった。だがそこに指を伸ばすのは、透の胸を鋭く刺した。
「泉堂の名前、ここにある」透は呟いた。声に熱が混じったが、彼は声量を抑えた。「研究対象として登録されてる……いや、標的という書き方だ。日付は去年の晩秋。ここの『サンプル群』って欄に泉堂のイニシャルが並んでる」
春野が手を叩くようにしてその紙を取る。読み進めるうちに、彼女の顔に怒りと悲しみが交錯する。「あの人が実験の被験者だったなんて――彼は、自分の声を守るために消えたんじゃないか。実験に使われることを拒んだのかもしれない」
「それを確かめるのは必要だ」河合が簡潔に言った。「でも、公開に当たっては、個人情報保護と被害者の意向を最優先にしないと法的に叩かれる。私が局に持ち込める形に整えないと意味がない。三浦、出所のチェーンはどうなってる?」
三浦は苦笑した。「それが面倒なところでさ。元々は内部用のプロトタイプ文書。複数の研究拠点で共有されていたらしい。暗号の鍵の一部は、ある財団のサーバに置かれている。そこが資金の通り道だ。口座の断片も掴んだ。公共名義の助成金が妙な研究枠に流れている」
「つまり、研究資金を辿れば研究拠点に近づける」透が言った。だが彼の声にはひとつのためらいが混じる。「そこに行けば、実物の装置や実験記録を見ることができるかもしれない。でも、もしそこに被験者のプライバシーを暴くような一次資料があったら、僕は読みたくない。精査はしない。外形の証拠だけで――」
透が言葉を切ると、室内の空気が一瞬ゆっくりと鳴った。誰もがその「精査をしない」というラインを理解していた。だが現実は厳しい。研究資料だけで組織の悪事を法的に暴くには、通常よりも強い因果関係が求められる。合図の波形が放送に混ぜられていた物的証拠、受信側での再現性、それらを法廷で示すための専門家の証言──河合は既にそうした必要性を計算していた。
「対抗手段を構築するには、装置の技術仕様が要る」三浦が言葉を継いだ。「逆位相で打ち消すとか、合図を検出した瞬間に非侵襲的なノイズで相殺するとか。防御は可能だが、使う波形の選定や同時同期の精度が問題。俺たちが倫理的に安全だと判断した形で実装しないと、やはり歪みは生まれる」
「逆位相で消すというのは、防御のための技術的反応でしょ?」春野が確かめるように言った。「それは許されるの? 操作じゃなくて、中和に留められる?」
透はその問いに答える前に波形の図を見た。そこには雨の足音 のパターンに酷似した短い高調波列が何度もマークされている。間隔、強度、加えられた雑音の種類──それら全てが「合図同期プロトコル」であることを示していた。もし逆位相で打ち消すとしても、それは一瞬の反応であって、能動的に人の感情を設計する行為にはならないはずだ。防御と攻撃の差は紙一重だが、彼らはそれを見分けるための線引きを話し合わねばならなかった。
「僕の考えはこうだ」透はゆっくりと言った。「合図を『中和』するための技術は作る。だが、それを『人の心を誘導するため』に使わない。放送局が公式に承認する防御パッチの一種として入れる。放送の自由や個人の内面の自治を侵すような設計は許さない。僕はその線は守る」
河合は眼鏡の端で透を見て、小さく頷いた。「法的な定義もそこに合わせよう。中和、無害化、受信者の選別はしない。局の監視に下に置く。だが、実務的には証拠が必要だ。現物の装置、あるいは作動ログがあれば話は早い。君はそれを見るか?」
透は答える前に、胸の中にある小さな空洞を感じた。耳鳴りは朝より強くなっている。夜の解析で失った旋律の断片が、彼の内側でまたひとつ薄れていくことを恐れていた。だが同時に、島村や直人の顔が浮かんだ。彼らの夜を守るためには動かなければならない。自身の代償は、いつか必ず支払われると分かっている。支払わなくて済むなら、誰だってそうしたいだろうが、今はそういう選択肢はない。
「見る」透は短く答えた。「ただし、精査はしない。記録の物理的な存在、回路図、送受信のログ――そういうものだけを証拠にする。もし当人の内面に踏み込むような一次資料があれば、第三者の目を入れて封印する。それで進めてくれ」
三浦は笑ったような表情で肩をすくめる。「わかった。お前のやり方でいくよ。俺は向こうのルートを刺激して、研究拠点の機器仕様と送信ログの実物を引っ張り出す。時間がかかるが、なんとかなるはずだ」
春野は机の上の紙の束をぐっと握った。「拠点に行くのは危険だ。だけど行かなきゃ分からない。皆で決めたことだ。泉堂さんの名前が