星祭りの槍姫 第7話「第6章」
夜は来るべき嵐より先に牙を剥いていた。弧月草原の風は鋭く、火の光を受けて銀色の草がざわめき、遠くの焚き火が規則正しく点滅している。リンナは丘の縁で槍を抱え、掌に嵌められた緑の符を覗き込んだ。符はいつもより重く、冷たかった。冷たさの源は、夜空の方角ではなく彼女の内側にあった。
夜は来るべき嵐より先に牙を剥いていた。弧月草原の風は鋭く、火の光を受けて銀色の草がざわめき、遠くの焚き火が規則正しく点滅している。リンナは丘の縁で槍を抱え、掌に嵌められた緑の符を覗き込んだ。符はいつもより重く、冷たかった。冷たさの源は、夜空の方角ではなく彼女の内側にあった。
「裏切りは現実だ」カイロの低い声が背後から届く。彼は紙切れを持っている。先刻ベロが示した印章の写し。ユルガンの軍章が角に小さく描かれていた。リンナは紙面に指を滑らせる。炎の光が紙を揺らし、文字の黒が踊る。南縫派の有力者が、敵の辺境軍と手を結んだ。その事実は、ただの噂ではない。ここ数日の準備の歯車がすべて合わせられたのだと、彼女は理解した。
「我々は合意の下で行動する」リンナは言った。声は冷静で、しかし震えていた。「だが、今夜は合意が割られた。南縫派の一部は、敵と裏で取り引きをしている。もし彼らが戦列を逸れれば、夜の番兵は裏をつかれ、歌い手は狙われる。私が一人で決めるつもりはない。だが、この状況──」
言葉はここで途切れた。丘の向こう、草原の向こう側で灯火が一斉に揺らいだ。高固国の燈火隊が動いたのだ。彼らは夜空を乱すために小屋ごと炎を点け、毒煙を焚いている。閃光と黒い帯が混じり合い、星々の輪郭を掻き消していく。ミルナが顔を上げ、唇を小さく震わせた。
「歌を歌えなくなる」彼女は囁くように言った。「合唱が乱れれば、写因は弱む。夜空が遮られれば、術は成らない。燈火隊はそれを狙っている」
「それを許すわけにはいかない」アサムが短く言ってから、馬のたてがみを撫でる。彼の目は戦場のそれだった──冷たく、しかし熱を帯びている。「歌い手を守る回廊を作る。燈火隊の列を切り裂く。私が前を行く」
アサムの決意は、即座に実行の号令となった。彼は騎手長として、数十の急使を率い、夜の闇へと突っ込んでいった。彼の影が消えた瞬間、リンナは胸に重い物が落ちるのを感じた。彼はいつだって前に出る男だった。だがその前に出るという行為が、今夜は何かを奪う予兆にも思えた。
戦列が動き、河のように風が変わった。高固の燈火隊と南縫派の裏切り部隊が連携し、草原の東西を挟み込む。敵は投石機で通路を破壊し、夜間行軍で混乱を生む。兵士たちが叫び、馬が嘶き、火と煙が視界を塗りつぶす。リンナは丘を下り、ミルナのそばに立った。歌い手の輪は幾人か欠けている。曲を覚えている者も、顔を引きつらせている。
「合意は取れるか?」リンナが訊ねる。儀式には共同体の同意が不可欠だ。たとえ非常時でも、無断使用は星断を招く。彼女はその重みを誰より知っていた。
ミルナは小さく首を振った。「南縫の一部が裏へ回った。老齢の巫女たちは恐れている。だが、庶民が声を上げるだろう。君のために、歌ってくれる人が残っている。十分かどうかは──」
十分かどうか、それが問題だった。リンナは周りを見渡した。旗の下にまとまる兵の顔。子を抱く母の目。年老いた羊飼いの鋭い程の意志。合意は割れても、民の多くはまだ彼女を信じている。彼女はその信を取るしかなかった。
「よし」リンナはゆっくりと頷いた。「歌を始めろ。私が槍を使う。だが条件をふまえて――最大の角度で星を写す。三十度まで。だが──連続の回数に気をつける。私は既に二度、夜に写している。三回目は許されるが、同一星座の三回連続は避ける。変化をつけて士気を保つ。歌の正確さが生死を分ける」
ミルナの頬が青くなる。彼女は口をすぼめ、深く息を吸った。合唱の輪はゆっくりと息を合わせ始める。歌詞は古い。リンナが幼い頃から耳にしてきた、前世の断片が織り込まれた旋律だ。歌が空に吸い込まれると、槍の符がかすかに光った。緑の符は、心臓の鼓動と同期するように脈打つ。
儀式の条件を満たすためには、夜空が見えていること。だが燈火隊は視界を弾いてくる。煙が広がり、一瞬、星が斑に歪む。リンナはそれを見て、手にした短剣で自らの指を切った。血は冷たい。符に一滴落とす。血が天紋に触れると、符は暖かさを放ち、夜空の小片が槍先に吸い込まれるような錯覚が走った──写因の始まりだ。
最初の写は、敵の先鋒を惑わせた。地上に巨大な北辰の模様が「写り」、敵の隊列がその形に沿って混乱する。高固の夜戦専門部隊が方向感覚を失い、投石機の列が錯乱する。だが燈火隊は即座に反応した。毒煙を厚くし、星の輪郭を薄めた。彼らは星を奪おうとする。リンナの術は条件に脆弱だ。彼女は最初の成功の代償を肌で感じた──胸の奥に、かすかな引き裂かれる痛み。
「二度目をやる」リンナは言った。だが周りの空気は変わっていた。兵の数は減り、歌い手は疲弊し、南縫派の部隊が背後の敵陣と接触したその瞬間、東の丘に火が跳ねた。裏切りの手が、直接こちらに回ってきたのだ。
「やめろ!」カイロが叫ぶ。彼は策士だ。冷静に損得を読む術に長けている。だが今のカイロの顔には血色がない。彼の手は震え、計略よりも恐怖が上回っていた。
リンナは首を横に振る。選択は既になされていた。歌い手はひとたび声を高め、リンナは槍を天に向ける。血をもう一滴、符に落とした。夜空が裂けるようにして、別の星座が地面に写り、敵の側面を切り裂く道筋を作り出した。敵はそこで踏みとどまり、混乱した。アサムの部隊は死地にもかかわらず、突入して燈火隊の列を分断し、歌い手の回廊を守り切った。
だが代償はやはり容赦なく、すぐに現れた。アサムが最後の突撃を決めた直後、投石機の巨大な石が、彼の前にいた若い騎士の胸を粉砕した。馬は跳ね、火花が散り、アサムが叫んだ。彼は振り向き、振り返る力もなく、リンナを見た。目には誰にも見せないような優しさがあった。
「行け」彼は言った。声は風に消されそうで、しかし確かに彼女の鼓膜に残った。「お前の歌で、奴らを押し返せ。民を、守れ」
アサムは、歌い手の回廊を守るために屍となった。彼が倒れた瞬間、戦場は一瞬静止した。泥と草に混じる血の匂いが、リンナの鼻腔を襲い、符の緑が轟くように強く光った。彼の死は、単なる個の損失ではなかった。それは儀式のために払った値であり、民の命を守るための啓示でもあった。
リンナは槍を振った。三度目の写因は渾身の行為だった。もう一滴、符に血を落とす。だが今回は、彼女の前世の複雑な像が頭に押し寄せ、古い歌の断片が意味の輪郭を描くように響いた。符の文様が深く刻み込まれているように見えた。ミルナが古文書を読み上げた断片――「結び目を補え」――の言葉が、ここで意味を持ち始める。符はただの飾りではない。補助具なのだ。だがそれが何を補うのか、誰に代償を負わせるのかはまだ見えない。
三度目の星の写りは、戦況を狂わせた。敵の中心が崩れ、高固の辺境軍は混乱の中で退却を始める。南縫派の裏切り部隊も、己の後ろの投石機に阻まれ、撤退の足を止められた。黎明を待たずに、戦は決したかに思えた。
だが勝利は完全ではなかった。草原の返り血のように、代償は地に落ちた形で返ってきた。翌朝、村々に降り立ったのは鳥のような静寂ではなく、乾いた風だった。水たまりの縁はひび割れ、羊の群れは子を抱く乳房に空虚を抱いた。雨季の端が一寸、二寸と遠のいた。ミルナはそれを見て、手で顔を覆い、