潮騎馬の王朝 第7話「第6章」
風が桟橋を引き裂いた。紙片が渦となって空を舞い、朱い波紋の一つが燃えさしのように光を放つ。潮澄はその光を見て、胸のどこかが冷たくへこむのを感じた。手の中にあるはずの一枚の紙が、いつのまにか誰かの指先で引き裂かれて消えていった。海の匂い、焦げた藁の匂い、群衆の声。港は瞬時に喧騒の渦に飲み込まれた。
風が桟橋を引き裂いた。紙片が渦となって空を舞い、朱い波紋の一つが燃えさしのように光を放つ。潮澄はその光を見て、胸のどこかが冷たくへこむのを感じた。手の中にあるはずの一枚の紙が、いつのまにか誰かの指先で引き裂かれて消えていった。海の匂い、焦げた藁の匂い、群衆の声。港は瞬時に喧騒の渦に飲み込まれた。
「兵を出せ! 秩序を守れ!」朔礼の声が割り込む。軍帯の金属音、鎧がぶつかる音とともに、潮騎馬隊の隊列が桟橋の両脇に整列していく。朔礼の顔はいつになく険しかった。彼の目が摂政側の侍医や官吏たちを射抜くたび、都の命令書を握りしめた者たちはわずかに躊躇した。
「治安維持は我らの任だ。無闇に火を放つことは許さぬ」朔礼は低く、しかし確固たる声で告げた。だが向かい側に立つ一人の官僚は肩をすくめ、摂政の名を口にした。「摂政の指示がある。重要資料は都が回収し、史料の真偽を見定めるまで公開するなと。混乱を抑えるためだ」
その言葉に群衆は嘲り声で応えた。嘘だ、隠すためだ──怒りの声はくすぶる炭火のように広がっていく。岸寄せされた小舟の中から、誰かが火柄を投げた。小さな火が、紙の束に燃え移る。あっというまに、紙は黒く、そして灰に変わった。炎の根元で、三つの波形の朱印が赤黒くぐにゃりと滲んだ。
「我々の血縁が載っている! 我々の名が……」老婆の声が嗚咽になって桟橋を震わせる。ある者は噛みしめるように拳を握り、ある者は膝をついて天を仰いだ。潮澄は自分の胸の奥から、また一つ──確かめようと手を伸ばすと、幼い日の匂いのような記憶がすべり落ちるのを覚えた。誰の声だったのか、誰の頬だったのか、掌の温度だけが残った。
「王子殿下!」葉乃の手が彼の袖を強く引く。彼女の瞳は涙でぎらつき、しかし声は震えていなかった。「公にするのはいい。けれど、このままでは港が滅びます。交易が止まれば、飢えが来る。どちらを優先するか、私たちは決めないと——」
潮澄は唇を噛んだ。彼の立場は、言葉一つで秩序を繕うか、真実を露わにして沿岸を震わせるか、どちらかの道を示さねばならない。だが「潮読」を使って海を制するという選択肢は、ここではない。潮を読むには潮導馬の鞍に手を掛け、海底を駆けなければならない。公の場で潮読を示すことは禁忌であり、法で固く制されている。もし彼がその力をここで見せれば、都は「王家による威圧」として封じにかかるだろう。しかも、すでに潮譜片が連鎖して露出している。力を行使すれば、また新たな潮譜片が潮面へと噴き出し、彼個人の過去は更に剥ぎ取られる。潮澄は自身の胸の奥で、記憶が一枚ずつ剝がれる痛みを舌先で確かめるように感じた。
「使うな」紗蓮の囁きが耳元を掠める。彼女は古文書の端を指で押さえ、目を潤ませながら言った。「裏を取る前に潮読を使えば、都は口実を得る。潮譜は公共財だ。勝手に暴露して民を巻き込むことは、潮譜の倫理にも反する。私たちが真偽を確かめる。そのために時間をくれ」
だが時間は容赦しない。群衆は既に二分され、怒りの矛先は「都」と「王家」へと向く。摂政を支持する者、都の秩序を守れという者、作り物だと叫ぶ者、被害を訴える者――声はまとまりを欠き、そこに空いた穴へと暴力が入り込む。
「封印は、もう──手の内から滑り落ちていった」朔礼が呟いた。彼の言葉は潮澄の胸に沈んだ。朔礼はかつて何度も法の名のもとで命令を下してきた男だ。だがその顔には、ある種の疲労と罪の色が刻まれている。朔礼は軍の長として秩序を守ることを、ある時までは信じていた。しかし今、秩序を守ることが真実の抑圧に等しいのかもしれないと、彼もまた疑い始めている。
「王子殿下、命じてください。資料の保全と住民の避難を。軍はそのためにある」朔礼は直球を投げた。だが風上に立つ摂政の代理人は冷たい笑みを返す。「調査は都の機関が行うべきだ。軍は秩序の回復に専念せよ。史料の取り扱いは、我が摂政の許可なくしてはならぬ」その一言が、朔礼の背筋を固くした。
群衆の中で、小さな声が急に通った。誰にも気づかれないように、しかし確かに届く声。潮澄はその声に知らぬ間に視線を寄せていた。男は青褐色の髪を乱し、顔には海風と泣き疲れの皺が深く刻まれていた。彼は一歩前に出て、潮澄をじっと見据えた。目の奥には奇妙な光が宿り、どこか古いものをなぞるようだった。
「王子よ──お前の目は、海の記憶を抱えている」男は声を張り上げず、しかし群衆のざわめきに埋もれないほどに静かだった。「子供のころから、海が夢に出てくるとあんたは震えていた。潮の歌を呟いていた。うちの婆さんが、あんたの夢と同じ節を覚えていたと言う。あんたはただの王子じゃない。潮導の残滓が、お前の胸に宿っている」
その言葉が刺さる。潮澄は思わず息を呑んだ。夢の断片、幼い日の見知らぬ浜辺、別の時代の灯り——それらは彼だけの中にあるはずだった。だが今、見知らぬ男がそれを口にしたことで、潮澄の秘密が誰かの言葉で外部に触れたような気がした。外界からの指摘は内面の均衡を崩す。彼は言葉を返すことができなかった。もしこの席で「はい」と答えれば、その瞬間から都の監視と摂政の思惑がさらに苛烈に襲いかかるだろう。だが沈黙は無関心と解され、群衆の怒りを増幅させるかもしれない。
「口外するな」紗蓮は低く囁き、男の方へ向き直った。だが男は首を振る。「隠せるもんじゃないよ。真実はいつか出る。出してくれ、王子。海を読めるのは誰だ。あんたしかいない」
その言葉に周囲の空気が一瞬凍った。どうして見知らぬ男が、こんなにあけすけに、こんなに率直に彼を頼るのか。潮澄の胸を、薄く無数の矢が突いた。彼の能力の条件は常に明瞭だ――潮導馬と接触し、干潮の海底を馬で踏むこと。そして禁止はより厳しい。潮譜を個人の記憶へ手出しすることは禁止され、潮読を兵器化して民を犠牲にすることは法で固く禁じられている。代償は不可逆だ。過去の断片は、潮澄自身の個人史を一片ずつ奪う。
だが民は飢え、港は燃え、交易は停止しつつある。潮澄は王子として、見習いとして、守らねばならない民の顔を一枚一枚思い浮かべた。葉乃の額に浮かぶ不安の皺、朔礼の握った拳の震え、紗蓮の瞳に宿る焦燥。もし彼が潮読を使って航路を確保し、救援船を導けば、被害は軽くなるかもしれない。だがその代償は、また別の潮譜片を露出させることになり、王家の秘密は更に暴かれ、彼自身の記憶は更に薄まる。どちらを選ぶか。どちらを民は望むのか。
「私に時間をください」潮澄はやっと言葉を紡いだ。声は小さいが、群衆の中に届く程度には確かだった。「史料の調査を。朔礼、図書司と紗蓮殿と協力して、事実を確かめた上で我々は対応します。だが、いま、火を点ける者がいる。彼らを守るのは軍の仕事だ。秩序がなければ、誰も救えない。私の言葉を信じてください。真偽が確認できるまで、我々は公開を保留する」
言い切ったあと、潮澄は自分が何を引き受けたのかを知っていた。言葉は秩序を求めたが、それはまた、都の「時間」を与えることでもある。都が時間を得れば、隠蔽の機会も生まれる。朔礼の顔に一瞬、苦渋の色が差した。彼は潮澄の決断を軍として支えるのか、それとも都の命に従うのか。どちらも正しく、どちらも