夢鉱島のセラピスト 第9話「第八章」
波はいつもと同じ音を立てていた。船底を伝う低い振動が、まだ落ち着かない三人の呼吸を揺らす。ミナは舵に肘を預けたまま、目だけで前方の暗い海面を追っている。ユノは計器盤に手を置き、たびたび顎の下を押して耳に残る鈍い痛みを確かめていた。レムは甲板の欄干に寄りかかり、自分の掌を見つめていた。掌の中、彼の皮膚の温度は冷たく、指の先に小さな疵があるような気がしたが、それがいつ、どこでついたものなのかは思い出せなかった。
波はいつもと同じ音を立てていた。船底を伝う低い振動が、まだ落ち着かない三人の呼吸を揺らす。ミナは舵に肘を預けたまま、目だけで前方の暗い海面を追っている。ユノは計器盤に手を置き、たびたび顎の下を押して耳に残る鈍い痛みを確かめていた。レムは甲板の欄干に寄りかかり、自分の掌を見つめていた。掌の中、彼の皮膚の温度は冷たく、指の先に小さな疵があるような気がしたが、それがいつ、どこでついたものなのかは思い出せなかった。
「まだ浅い眠りのままか」ユノがやや鼻をならす。声は疲れているが、彼なりの均衡を保とうとしているのが分かった。「追跡艇を振り切ったのは上出来だ。だが、これからが勝負だ。保存庫の映像を広げても、上に届かなければ意味がない」
ミナは一度だけレムを見た。瞳には安堵が混じっていたが、その輪郭は厳しかった。「記録を撒く。人を集める。掲示は私がやる。だが……」
「俺が行く」レムの返事は小さいが、確かな音で夜に吸い込まれていった。言葉に込められたのは自負でも驕りでもなく、不器用な確信だった。彼には傾聴潜航のやり方が分かる。死者の夢と対話し、核心を受け止めることで夢炭を結晶させる。サイの夢は、そこに欠けがある。欠けた場面を埋めるのではない。欠けた場面に触れる者が、サイ自身であるという意思を持つこと。それを取り戻すために、幾つもの夢に潜って断片を繋げる必要があると、レムは考えていた。
ユノは首を振った。「一度で済む話じゃない。続けて潜るつもりか? 耳が持たないぞ。振動の調律を続ける手はあるが——」
「できる」レムは自分の胸の奥を覗き込むようにして言った。「俺が聞く。たとえその代償が増えても、サイが自分で選べるなら——」
ミナの口元に一瞬の苦笑が出たが、それはすぐに引き締まった。「聞くことと奪うことは別だ。忘れているだろうが、前にも言った。痛みを奪うな。選ばせろ。自分の欲しがる救いを押し付けるな」
レムの腹に何かが疼いたのは、前世の職業病が反応したからだ。長年、患者の言葉に耳を傾けながら、彼は短絡的な助言や安易な安心を与えてしまったことが何度もあった。患者の危機を前にして「早く答えを出してしまう」癖は、いくつもの関係を壊した。転生してこの能力を与えられたとき、彼は「ただ聞く」ことを武器にできるはずだと信じた。だがその「聞く」は、他者にとっての所有ではなく、彼自身の身体を削る行為でもあった。
「止めてくれ」ユノの声音が鋭くなる。彼はレムの腕を掴んだ。掌の力は強い。振動の後遺症で指先を失いかけた恐怖を、ユノは押し殺している。「俺たちは医師でも牧師でもない。お前一人で全部を抱え込めば、戻ってこれなくなる。傾聴は賜物でもあるが呪いでもある。回数を数えるんだ、レム。代償を忘れるな」
レムはユノの手を緩く振りほどいた。手の感触を通して、怒りと恐れが同時に流れ込むような感覚があった。あの日、採掘塔の警報が鳴る中で何百という声が折り重なった記憶の断片が、今も彼の胸の周りで羽音を立てている。彼は自分がその羽音を、誰のために止めなければならないのかを考えた。目の前にはサイがいる。廃棄夢の中で半分残されている少女。彼女の声が、誰かの手によって燃料にされる前に、証言として結晶化しなければならない。
「一人でやるつもりはない」レムは小さな声で言った。「だが聞くのは俺だ。俺だけが、サイの中に残る『私』の声を見つけられるかもしれない。……分かってる。失うことを。忘れていくことを。だからこそ、今は聞く。後で、皆で選ぶために」
ユノは疲れた瞳を細め、何か言いかけて飲み込んだ。ミナはそうしたやり取りを黙って見守っていたが、彼女の表情には安堵と不安が入り混じっている。「一度だけよ」ミナがようやく口を開く。「その後は私が掲示をやる。情報を広げる。それでいい?」
「一度じゃ足りないかもしれない」レムは言った。「でも、なるべくまとめて終わらせる。待っていてくれ」
彼らは短い合図をして船の下甲板へ降りた。潜航用の水槽はいつものように冷たく光っていて、透明な流体が内側でゆっくり蠢いていた。ユノは機器のチェックをしながら、振動パターンを整えていく。レムは椅子に座り、イヤピースを嵌める。手には小さな金属製のカウンターがあった。代償を数えるための、自分のための道具だ。指先でそれを押すたびに、レムは何かを失うことを自覚する。数えることで、喪失を無自覚な連鎖にしないために。
最初の潜航は、怒りの夢だった。鉛色の工場の中で、死者たちが列をなして叫んでいる。機械の歯車が人の顔を噛み、叫びが低いうなりに変わる。中心には白い作業着を纏った男が立ち、腕を振り上げている。男は怒りに満ち、「あいつらめ、あいつらめ」と同じ言葉を何度も繰り返す。彼が指差す先には、影のような腕があり、その先端は遠隔操作のレバーと化していた。
レムは声の筋を探る。傾聴潜航では、言葉にならない感情が声に転写される。怒りは太い弦のように振動し、胸の奥で共鳴する。レムはその弦を否定せず、ただ受け止める。彼は以前なら「そんなことはない」と言い、自分の言葉で患者を慰め、道を示そうとしただろう。しかし今、彼の仕事は違う。受け止めることは、その人が抱いた怒りを、その人の選択として尊重することだ。彼の内側に怒りが押し寄せる。熱く、赤い。彼はそれを自分の体のなかに収める。夢の中の男の叫びが、目に見えるように固まり、青白い結晶の欠片となって手の中に落ちる。
現実に戻ると、手のひらに小さな冷たさが残った。ユノがカウンターのボタンを押す。カチ、と干渉音がする。レムはその音とともに、何かの名が喉の奥から滑り落ちるのを感じた。母の顔。輪郭だけは薄く光っている。だが、その顔を結成する細部が、彼の中でぼやけていく。鼻の形、笑ったときの皺、寝顔の柔らかさ。彼は必死に掬い取ろうとするが、掌に残るのは空虚だけだった。先刻、消えた子供の頃の花の名前と同じように、母の顔も輪郭だけが残された。
「思い出せない?」ユノが静かに聞く。言葉の中に、苛立ちと哀しみが混じっていた。
「……うん」レムはうなだれた。胸の中に、古い絵が剥がれ落ちた気配がする。だがそこに後悔だけがあったのではない。むしろ、空いた場所があることで冷たくも安堵に似た感情が生まれた。過去を完全に握りしめることはできない。だがその空白が、今声を必要とする誰かのための場所になるのなら、彼はそれを受け入れようとしていた。
二度目の潜航は恐怖だった。狭い通路、終わりの見えない階段、下から轟く低い鼓動。夢の中では、誰もが床にしがみつき、足元の空間がいつの間にか風になって消える。少女は手を伸ばし、見知らぬ人に助けを求めるが、その人の顔はどんどん溶けていく。声は細く、砂のように指の間から落ちていく。彼女の恐怖は「落ちること」そのものではなく、「選ぶことを奪われる恐怖」だった。目の前で決定権が持ち去られる。遠隔操作が、彼女を人形化する。レムはそれを聞き、静かに受け止めた。恐怖は結晶になり、彼の胸の中で冷やされる。現実へ戻った瞬間、彼は自分の声が誰か別人の声に重なっているのに気付いた。前世で彼が聞いた患者の嗄声が、今、彼の唇から漏れてくるのだ。患者の問いかけが、