夢鉱島のセラピスト 第8話「第七章」
ミナは舵を握ったまま、声を出さなかった。雲海の切れ目に見えるのは、錆びた骨のように折れた建物と、空を向いた窓だけだった。リュネはかつて緑と木造の屋根で満ちていた島だったと、彼女の胸の奥にある写真はいつまでも色を失わない。今は廃墟の群れが浅い潮に半分沈み、夢の痕跡が白い粉のように堆積していた。
ミナは舵を握ったまま、声を出さなかった。雲海の切れ目に見えるのは、錆びた骨のように折れた建物と、空を向いた窓だけだった。リュネはかつて緑と木造の屋根で満ちていた島だったと、彼女の胸の奥にある写真はいつまでも色を失わない。今は廃墟の群れが浅い潮に半分沈み、夢の痕跡が白い粉のように堆積していた。
「消しに来たら、もう戻れない」とミナは、低く吐き出すように言った。操舵室の小さなランプが彼女の手元だけを浮かび上がらせる。外套の下で手が震えているのを、彼女は舵の冷たさで確かめた。
甲板の端で、ユノが配線を調整している。彼は片耳の聴力を失って以来、振動を頼りに機器と対話するようになっていた。指先で振動の周波を測り、舵取りの微かな振れを文字通り身体に刻み込んでいる。ユノの顔には芯があるが、表情はいつもより硬かった。雲の下から上層の船団が少しずつ近づいている。追跡器の影を他の波紋で覆い隠すのは難しくないが、発見されたときの代償は大きかった。
レムはミナの背後に立ち、地図端末の光を覗き込んでいた。彼は静かに、だが確かに準備を整えている。レムの顔にはいくつかの消えかけた記憶の跡が見えて、笑ったときの口元と、ふいに遠くを見つめる横顔が交互に表情を綴る。ミナはその横顔をすっと見た。彼にはいつも、人の言葉を待つような目がある。聞くことを生業にしていた者のそれだと、彼女は思った。昔々、彼女が操舵士だった頃、誰かの叫びに耳を塞いでしまったことを、まだ自分は許していない。
「言っておく。ここで私の過去を掘るつもりなら、手短にしろ」ミナはやや荒い声で言った。舵が小さく振れた。遠方で金属が鳴るような、冷たい反応音がした。恐らくは上層の無人索敵艇だ。
レムが肩越しに答えた。「話は長くしなくていい。必要なのは事実だけだ。君がそれを渡したのか、作為があったのか。記録があれば、それを確かめる。それだけだ」
だがミナは既に知っていた。記録の有無を争うよりも、その前の自分の手の動きを、誰かに認めてほしかった。夜の海の光が舷側に当たり、古い傷の下の皮膚を青く見せた。彼女は息を吸い込み、短く言った。
「事故の前、命令が来た。『島を空にするのではない、別の場所へ流す』って。言い方はそうだ。私は間違いなく、それを実行した。家族を——みんなを載せる船に、私は航路を指示した。だから、私のせいだ。私がそのスイッチを押した」
ミナの声には刃のような冷たさが走り、舵の木目に食い込む爪先の痛みを彼女は意識した。レムは黙ってこちらを見ている。ユノは機器のノイズを抑えながら、二人の会話を振動として受け止めていた。彼らは協力してきたが、今は一人の女が十年分の火薬を握りしめているように見えた。
「違法採掘船の操舵士のときだ」とミナは続けた。言葉が続くたびに、何かが崩れるように軽くなる。「後で知った。転送先は下層島だった。私の目の前で波のように消えていった船の先に、笑う人々はいなかった。避難が間に合わなかった。……会社は記録に『自然崩落』って書いた。私は、それを受け入れてきた。自分を許すことができなかった。だからここへ来る、証拠を掴むために」
ミナの喉が鳴る。彼女はどこかでこらえ切れなかった涙を押し殺すために顎を引いた。声は消え入りそうだったが、その中に硬い意志があった。「でも、私に見せるなって言われたら、それでもいい。私は、ただ自分を裁くか許すか、決めたいの。自分の手で」
そのとき、上空の風が変わった。雲の裂け目を縫うように、遠方の船影が二つ、黒い矢のように迫ってきた。追跡艇だ。ユノが硬い声で命令を出す。「フェイク音波を散らす。ミナ、あの裂け目を突くんだ。建物の間を通れば熱反応を分散できる。だが姿勢は正確に。逃げ場は一つしかない」
ミナは舵をわずかに切り、船の鼻先を朽ちた橋桁の影へ滑り込ませた。眼前の建築の断片が窓のように見え、透過する光が不規則に踊った。波が船底を打つたびに、脳裏にあの夜の音が蘇る。住民の呼び声、機械の低いうめき、そして誰かの命令を通報してしまった自分の口。ミナはその声を押し殺しながら、舵をゆっくり戻した。追跡艇の赤外輪廓は破片に遮られ、数秒の遅延が生まれる。それだけで十分だ。
港の遺構の間を縫って進むと、三人は滑り出すようにして小さな湾に着いた。そこには大型のドーム状の設備が半ば埋まり、表面に会社の焼印と古い文字が刻まれている。入り口は厚いスライド扉で塞がれており、金属の縁に薄い氷がびっしりと付着していた。採掘記録保存庫だ。雪のように舞う白い粉は、夢炭が風に晒された残骸だった。誰かがそこに残した夜の記憶が、粉になって落ちている。
「ここだ」ユノが振動を手元の盤に伝えながら言った。彼の指先は微かに震えている。失った高音を取り戻すために、彼は自分の身体を調律し直していた。だが今見せるのは、彼の誇りと覚悟だ。ミナは一瞬、彼の背の細さを思った。小さな身体が大きな声を支えている。
扉は固かった。外部電力が途絶えているため、手動で解除するしかない。ミナがベルトの先端の工具を取り出し、冷たいスチールに掛ける。工具がはじける音が、廃墟に鋭く響いた。背後でレムが静かに訊ねる。「行く? 今なら追跡艇がまだ接近している。遮蔽物に使える時間は、五十秒あるかないかだ」
ミナは工具を回しながら、歯を食いしばって短く頷いた。「行く。あと一歩で全部終わるわけじゃないけど、終わらせるために必要だ。記録を見て、もし会社が関与していたなら、それを暴く」
扉がきしみをあげて開いた。内部は冷気の海で、空気の中に時折かすかな振動が流れている。棚に並ぶはずの丸いディスクが、氷に包まれて群れのように横たわっていた。どれも金属かガラスか、私たちの世界のものではない別種の固まりに見えた。レムが手を伸ばし、慎重に一つを取り上げる。表面に光が走り、一瞬だけ記憶の断片が暗く輝いた。古い映像を映す夢晶だ。保存された眠りの断面だ。
「これが凍結された採掘記録か」ユノが振動で言う。彼は機器を繋いで、ディスクをスロットに差し込む。装置が唸りを上げ、氷を溶かすようにゆっくりと表面の層を剥いでいく。中からぼんやりとした光が漏れ、薄い蒼い波紋が壁に映る。映像が立ち上がると、空気の温度が少しだけ変わるように感じられた。
だが、そこで扉の外から荒い金属音がした。上層の捜索艇が湾を回り込んだのだ。センサーが反応している。ユノの体が固まる。レムはディスクの映像に集中したまま、誰かに向かってそうっと言った。「落ち着いて。映像は複数の角度で保存されている。最初に見たいのは、事故直前の操艦ログだ」
映像は断片的に起動した。リュネの港に立つ塔の監視窓、夜の空を切り裂く交換子の赤い光、無線が断片的に鳴る。古いオペレーターの手がコンソールを叩き、航路変更のコマンドが流れた。そこに映るミナ自身の姿は、若くて目が真っ直ぐだった。彼女の手が、舵を指示する端末に触れる。船のラインが表示され、矢印が別の座標へと移る。映像は穏やかな死角に、何か不穏なものが挟まれていることを許さなかった。
だが、その直後の数フレームが、画面の中央で欠落している。映像の時間が一瞬だけ飛び、次に映るのはスモークと悲鳴と、微か