境界線の弟は、二度目の救命を選ぶ 第7話「第六章」
橋が折れる音は、足の裏から震えるように伝わった。鋼と石が擦れる短い断末魔のような音──遠くの人々がそれを聞いて顔を上げ、次の瞬間には叫びが混ざった。橋の幅は広く、大きな荷役車が一台、中ほどで斜めに止まっていた。左岸には祭り帰りの群衆、親子連れがひしめき、右岸には古い職人街の横丁と水門を守る小さな事務所がある。空には天秤環の淡い光が広がり、回転する水晶が見下ろすように白く点滅していた。
橋が折れる音は、足の裏から震えるように伝わった。鋼と石が擦れる短い断末魔のような音──遠くの人々がそれを聞いて顔を上げ、次の瞬間には叫びが混ざった。橋の幅は広く、大きな荷役車が一台、中ほどで斜めに止まっていた。左岸には祭り帰りの群衆、親子連れがひしめき、右岸には古い職人街の横丁と水門を守る小さな事務所がある。空には天秤環の淡い光が広がり、回転する水晶が見下ろすように白く点滅していた。
「そこだ、誰かが落ちた!」
声も叫びも、同じ方向を向いていた。レオンは咄嗟に身体を動かして、瓦礫と崩れかけた欄干の間へ身を滑り込ませる。金具が引き千切れる音、石の粉が空気を濁らせ、子どもの嗚咽が途切れ途切れに聞こえる。倒れた担架、足に絡まった布、幾つかの手足の角度が間違っているだけで、生と死の距離を示していた。
ガイはもう動いていた。無言のまま、口元に当てた手のひらから、薄い膜のように音を引き出し、それを橋の下から人々を支えるように固める。音が固体になると同時に、金属製の梁が一時的に持ちこたえ、落ちかけた欄干を支えた。だがガイの顔に、疲労の影が瞬時に走る。彼は力を込めるほどに呼吸が浅くなり、目の焦点が定まらなくなる──長時間使えば聴覚を失うと、レオンは前に聞いていた。
「レオン、向こう、子どもがいる!」ミラの声。彼女は濡れた布を握りしめ、動かない男と小さな女の子を隔てるようにしゃがみ込んでいた。女の子は薄い毛布に包まれ、口元に泥がついて瞳を閉じている。男は首を捻じ曲げて、血の乾いた匂いがした。左胸に大きな裂創を抱えていた。レオンは手袋をはぎ取り、泥を払いのける。救命士の癖が、無意識に体を支配する。呼吸の有無、脈の打ち方、舌の位置。判断の時間は一瞬だった。
だが視界の端で、右岸の低い建物の屋根から水が噴き出すのが見えた。水門の閥が外れている。職人街の通りが、ゆっくりと濁流へ飲まれていく。人々の足元が滑り、ざわめきが波のように広がる。もし右岸を放置すれば、狭い路地にいる多くの家族が一度に水に呑まれるだろう。だが左岸には今、自分の手で命を繋げることができる親子がいる。
過去の記憶が、胸の奥でざわつく。別の都市、赤い回転灯の下で、限られたリソースの中で一人を切り捨てる決断をした自分がいた。あの時の叫びと、消えかけた指先の感触が、今と重なる。ここでも――決めるのは自分だ。前世の名は朝倉蓮司、救命のために数字で命を還元してきた男。ここに来て同じミスを繰り返すわけにはいかない。だが、どうしても、今目の前の子どもの鼓動を無視することができない。
「触れる、名前を聞く」──レオンは無言で呟き、ポケットから小さな手帳を取り出す。能力の代償を知っている。使えば一時間分の記憶が抜け落ちる。何を忘れるのかは予測できない。だからこそ彼は、手帳の一ページに今日の目的と、もし記憶を失った時に誰に何を伝えるかを書き記しておいた。いつもそうしている。メモを書く行為自体が一種の儀式になっていた。
ミラはその様子を見て眉を上げた。「本気で使うの? ここで?」
「一度、見ておきたい」レオンは短く答え、泥まみれの男の手首を掴んだ。男の手は冷たく、指先の震えが止まっている。名前が書かれた小さな名札を見つける。『アーヴィン』。口の中を確かめるついでに、レオンは低くその名を呼んだ。「アーヴィン。アーヴィン、聞こえるか?」
触れた瞬間、世界がずれて見えた。まるで雨粒の表面が別の時間を映すように、目の前の景色が白いフィルムのように巻き戻り、そこに三十秒の別の可能性が映し出される。レオンは映像を掴もうとして、同時に手帳に書いた目的を反芻する。
映像の始まりは、橋の手前。アーヴィンが工具を抱え、子どもの笑い声に顔をほころばせる。次いで急に重い音。欄干を突くように何かがぶつかる。アーヴィンは反射的に子どもを突き飛ばす。そのとき、右岸側の小さな事務所の扉が壊れ、水がゆっくりと噴き出している。映像の前半ははっきりしていた。もしアーヴィンが左側に動いていれば、子どもは安全に落とされることになる。だが映像はそこで分岐した。
分岐の一方では、アーヴィンが子どもを突き飛ばした直後、右岸の通りで水が溢れ、路地で多くの人が足を取られて倒れる。別の分岐では、事務所内の古い石の梱包が堰をして、一時的に水の侵入を遅らせる。最後の三秒で、どちらの分岐にも一つだけ不可解な要素が混じっていた。右岸の水をとめようとする老女の顔が、映像の中で強く歪む。歪んだ顔の輪郭は、どこか別の人物のように見える。レオンはその顔の正体を確信できないまま、映像が消えた。
触れたまま、レオンは胃の奥がきりりと締めつけられるのを感じた。誤差。いつもだ。どこかが歪む。全てがはっきり見えるわけではない。彼が前世で見た三十秒も、完全ではなかった。だが今回は、誤差のせいで決断が変わるかもしれない。もし老女の顔が誰か重要な人物の代わりに映っていたら、彼は差し向けるリソースをミスリードされる。目の前の現実を選ぶべきか、見えた別の可能性を優先するべきか。どちらも死亡数を左右しかねない選択だった。
「どうした、レオン?」ミラの声が近い。彼女はレオンの手元の名札を見て、驚きと戸惑いを混ぜた表情を浮かべる。「なんて名前だった?」
「アーヴィンだ」レオンは返した。会話の断片がふっと遠ざかる感覚があった。使うたびに一時間が消える。だが今はまだその影響は来ていない。彼は決める前に、もう一度周囲を見渡した。左岸の親子はまだ息がある。右岸の小さな職人たちは、瓦礫を抱えて耐える時間を稼いでいるように見える。だが水は静かに、確実に進んでいた。
「左を優先するべきだ」ガイが権衡のように口を開く。彼は音の担架を作る準備をしながら、まだ半ば喪失した聴力のせいで言葉をほとんど囁くようにする。「橋の崩壊は拡大する。そこにいる子どもは、即座の処置が必要だ。右は時間が稼げるかもしれないが……」
ミラはかぶりを振る。「そう簡単じゃない。水門が外れているなら、右岸は一気に無数の小さな死者を出す。何人かを救おうとして多数を失うのは、あんまりだ」
「数字で語るな」レオンは自分の声を抑えた。彼は数字で命を見せることに慣れていたが、ここで再び天秤にかけるのは自分の仕事ではない。救命士として、現場で最短で救える命を救うのが常だった。だがそれは時に、他の誰かを置き去りにすることでもあった。前世でのあの蒼白な後悔が、また胸を刺した。
「いいか、ここでできることは二つしかない。全力で左岸を固めるか、右岸に人を割いて堰を作るか」ガイが続けた。「二手に分ける時間はない。俺の担架を二箇所に飛ばすことはできる。でも俺の耳は――」
ガイの言葉はそこで途切れた。手にした音の膜が微かに揺れ、その縁が白くにじむ。彼は自分の中で何かを計算している。音を薄く、だが広く使えば、より多くを一時的に支えられる。だがその代償は、彼自身の感覚だ。ガイはいつも最後まで無口で、無言の決断をして仲間を守ってきた。それがレオンにはどれだけ重い代償か、想像するだけで胸が潰れそうになる。
レオンは目を閉じた。手に触れたアーヴィンの冷たさが、彼の中の秤を揺らす。見えた映像の誤差は何を意味