異世界転生風車守の王国騎士 第5話「第4章」
ユズは風車小屋の入口で、掌に土の匂いと薄い油の匂いを混ぜていた。手のひらには固まったグリースの筋が残り、指の先は微かに黒ずんでいる。目の前には、春先から止まったままの一枚の羽根が横たわっていた。白っぽく乾いたその表面に、細い亀裂が暗い線となって走っている。彼はその亀裂に指先を寄せ、そっと撫でた。
ユズは風車小屋の入口で、掌に土の匂いと薄い油の匂いを混ぜていた。手のひらには固まったグリースの筋が残り、指の先は微かに黒ずんでいる。目の前には、春先から止まったままの一枚の羽根が横たわっていた。白っぽく乾いたその表面に、細い亀裂が暗い線となって走っている。彼はその亀裂に指先を寄せ、そっと撫でた。
「ここをくれたのは、おばあちゃんだったな」
背後の土道から、小さな足音が近づいた。腰に麻布を巻いた老女、マルが肩先で咳をして立ち止まる。来る途中に畑を見てきたのだろう、土のにおいが彼女の衣に混じっている。顔には疲労よりも不安が刻まれていた。
「ユズ、あの畝(うね)の麦が、朝は立ってたのに夕方には伏しておった。北風が止まって、虫がついたのかもしれん。…わしらだけでどうにもならん」
マルの声には、もう動く足がない者の諦めと、だがここに残るという意志とが混じっていた。ユズは振り向き、彼女の目を見た。そこに、自分が守るべきものがある。最初に助けを求めたのは、いつだってこういう顔をした人たちだった。
「移動ができん、と隣のハラも言ってた。徴税隊が道を見張って、村から出る者に文書を求めよる。助けに行けないって」
マルが肩をすくめると、遠くの峠から点々と白い布がはためくのが見えた。あれが徴税隊の拠点だ。ユズの胸が締め付けられる。彼はここで風を分けるしかない。だが、手元の羽根の亀裂は彼を黙らせる。
「一人の願いで回すと、羽根が折れる。前に試したときに、こうなった。俺の呼吸も、あのとき乱れちまった」
ユズは言葉に詰まらせずに告げた。マルの顔がひるむ。彼は一度、羽根を修理してはまた止めるという無茶をしてしまったことを思い出す。あのときは、村の端でひとりの子どもが息をひきとるかもしれない場面で、彼は反射的に一人の願いを選んだ。その結果が、あの亀裂だった。
「そ、そんなことなら……」マルは言葉を失い、指先で自分の胸を押さえた。「でも、ユズ。どうにかならんのかのう。皆で…皆で思うことはできんかのう?」
その「皆で」という言葉が、ユズの胸に小さな火を灯した。村人の願いを一つにすれば、負担は分かれるはずだ。彼の能力は、彼が整備した風車を、村人が回したいと願う方向へ一度だけ風を分ける。だが「一人の願い」だけで回すと羽根が折れ、ユズの呼吸は乱れる。ならば複数の願いを同時に向ければ、亀裂への負担を分散できるかもしれない。そう考えた瞬間、風が小屋の隙間をくぐって頬を撫でた。谷間の空気が、彼の考えに賛同するように震えた。
「皆で、か」ユズはつぶやいた。「分ける。風を、皆で分けるんだ」
彼は立ち上がり、小屋から工具箱を抱えて出た。村の広場には、既に数人が集まっていた。鍬を担いだ若者、屋根を補修する女、そしてマルの孫のハナ。皆が顔を寄せ合い、噂が不安を連れてきている。ユズは彼らに向けて手を広げた。
「試してみる。小さな実験だ。畑の二畝だけを対象にして、風を返す。だが、今回は一人ずつの願いじゃない。みんなで同じ方向に回したいと願う。順番でなく、同時に。そうすれば羽根への負担は分散される。動けん隣村に向けてはできんが、ここでまずやってみたい」
若者の一人が眉を寄せる。「同時に願うって、どうやるんだ?」
ユズは空を見上げ、言葉を選んだ。「声を合わせる。手をつなげる。…それだけじゃない。回すときの心を合わせる。畑を守りたいという気持ちを、同じ方向にだけ向けるんだ」
誰もが確信を持てずにいた。村で合意という言葉を出しただけで、古い世代は眉をひそめ、新しい世代は訝しんだ。だが、マルが前に出て、くっきりとした声で言った。
「ワシはその麦を救いたい。北向きに風を、頼むぞ、ユズ」
他の人々も少しずつ頷く。隣の小屋の男が口を開く。「うちの菜っ葉も危ない。北風で乾くなら、北へ回してくれ」
声はゆっくりと、しかし確かに重なっていった。十人もいない、だが年齢も仕事も違う者たちの願いが、一つの方向へと揃う。ユズは心の中で風車の構造をなぞり、彼が整備した羽根だけが持つ微妙な共振を思い出した。共振は分かち合いを赦すのだろうか。
「いいか、順を決めるぞ」ユズは指示を出した。「三つの小さな風車を使う。一つは畜舎の側、もう一つは井戸の手前、最後はここ、集落のはずれ。全部で三つ。皆で同じ方向に願う。合図はハナ、彼女がやる」
ハナは頷き、小さな笛を取り出した。彼女は山の子らしく、笛を親指と人差し指で挟んでいる。笛に息を吹き込むと、声ではなく息が指を伝ってくる。ユズはその息の揺らぎを見て、うなずいた。
「準備。手をつなげるやつはつなげ。心を向けられるやつは目を閉じろ。願う方向は──北、だ」
彼らはそれぞれの小さな風車のまわりに散らばり、手を取り合い、目を閉じた。何人かは不器用に笑い、何人かはこらえきれずに泣いた。ユズは自分がこの輪の中にいることを確かめると、呼吸を整えた。胸の奥に、前回の苦しみの記憶がある。あのときの乱れた息遣いが、まだ尾をひいている。
笛が鳴った。ハナの小さな音は谷間に淡く響き、木々の葉が震えた。声なき決意が一斉に押し寄せる。北向きに、回したいと願う息が一つの流れとなって集まる。ユズは目を閉じ、掌を羽根にかざした。彼の能力は発現の合図を待つ。村人たちの願いが、彼の作った機構と交わるとき、風は分かれる。
最初に来た感触は柔らかかった。掌の先で風が分裂し、一方は畑へと向かい、もう一方は畜舎へと回る。羽根が一度だけ、確かな力を得た。ユズの胸に収まるべきはずの呼吸の乱れは、前よりも薄く、しかし確かに感じられた。亀裂のある羽根の側では、微かな振動が指の腹に伝わる。だが、あの断片的に走る弾けるような痛みは、来なかった。
「行け……行け!」
誰かが声を上げる。彼の声は、北向きに揃った願いの後押しになった。風は畝を撫で、倒れていた穂を徐々に持ち上げ始める。土を湿らせるほどではないが、穂の角度は確実に直され、虫が飛び去る。見ていた村人たちの目に、驚きと涙が混ざった。マルは両手を握りしめ、喉の奥で小さく呻くような音を立てた。
羽根は鳴った。金属と古い木の継ぎ目が、光る調べを残す。ユズはその音を聞き、胸の奥で計測する。亀裂は進行しなかった。むしろ、微細な塵が唇について乾くように、表面の古い層がこそげ落ちるだけだった。彼は息を吐いた。乱れはあったが、以前のように深呼吸が止まるほどではない。
「効いたか?」若者の一人が駆け寄り、畑を覗き込む。地面に沿って伸びた影が、太陽の方向を変えていた。麦は、再び立ち上がろうとしている。
ユズは首を振り、少し両手を振る。「完璧じゃない。だが、負担は分散した。羽根の損耗が遅くなっている。これを続ければ、壊れる直前の一撃を避けられるかもしれん」
言葉は希望に満ちていたが、同時に慎重だった。彼の胸はまだ重い。あの刃を折る力は、依然として彼の中にある。代償は消えていない。だが、目の前の村人たちの笑顔は、確かに結果を示していた。
ホッとした空気が流れると、マルはゆっくりと首をかしげた。「ユズ、これが続けば、ワシらも動けん村へ風を送れるようになるのかのう?」
「いきなり遠くは無理だ」ユズは正直に答えた