異世界転生風車守の王国騎士

異世界転生風車守の王国騎士 第1話「序章」

谷間は朝の霧に呑まれていた。冷えた空気が葉を濡らし、石畳の小道には水玉が連なっている。風車塔だけが黒い影を落とし、羽根は止まったままだった。止まった羽根はこの村の針のように見えた――その先が狂っていることを示す針。

谷間は朝の霧に呑まれていた。冷えた空気が葉を濡らし、石畳の小道には水玉が連なっている。風車塔だけが黒い影を落とし、羽根は止まったままだった。止まった羽根はこの村の針のように見えた――その先が狂っていることを示す針。

「ユズ、頼むよ。去年の種が芽を待ってるんだ」

杖を突き、腰を曲げた老婆がゆっくりと近づいてきた。顔の深い皺が朝露に光る。ミト。朝市で干し芋を並べるときにいつも笑ってくれる人だ。ユズは工具箱を肩にかけ、泥を振り落としてから振り返る。

「まずはミトさんの畑を優先する。そこだけは、なんとかするよ」

声は宣誓めいたものではなく、行動の約束だった。ミトは小さく息を吐いて、両手を合わせる。「ありがとう、ユズ。風さえ戻れば……」

井戸端では噂が回っていた。先週、国の騎士が谷に来たという。川の上流に測定器のようなものを仕掛け、町役場に報告を上げていったらしい。風を計り、風を税にしようとしている──そんな囁きが井戸の周りで乾いた声になっている。だが噂は遠回しな脅威でしかない。ユズにとって、今必要なのは目の前の羽根だ。

彼は無言で風車塔へ向かった。以前の世界での記憶が皮膚の下でうずく。巨大なブレードを相手にナットの締め具合を確かめ、微かな音でバランスを取っていた。鉄と油の匂い。風を読むということは、機械を読むことだった。ここでも同じだが違う点がひとつある――自分で組んだ羽根には、彼だけの理が宿っている、ということだ。

「これは……見たことない止まり方だな」

軸を手で揺すれば、わずかな遊びはある。だが外力で風が奪われたような硬さが伝わる。風はある。谷を抜ける冷気の流れは手のひらに感じるのに、羽根は動かない。格子の隙間に挟まった草屑や傷では片付かない静けさが、塔を満たしていた。

ミトが藁帽子の下からじっとユズを見上げる。「村の外の人が、風を“徴収する”なんて言ってた。あんたなら止められないかって。ユズさん、ここを離れたら、みんな畑を失うかもしれない」

頼みは単純だ。しかしユズは知っている。ここに来てから手にした“仕事道具”の性質を。自分が整備した風車だけが、村人が回したいと願う方向へ、一度だけ風を分けられる。だがそれには代わりがある。彼は言葉を選んだ。

ユズは工具箱の蓋を開け、古びた布を取り出した。包まれた銅片と小さな歯車に触れると、前世の手順が頭に浮かぶ。ハブに手を置き、村人の願いを結びつけるように軸を支える。その瞬間、胸が締め付けられ、息が浅くなる。映像はいつも同じ終わり方で終わる──羽根がきしみ、ぱりっと裂ける音。自分の肺が火を踏むように苦しくなる感覚。

「一人の願いだけで回すと、羽根が折れる。俺の呼吸も乱れる」声に出すと、ミトの目が見開かれた。言葉に出すことが説明の全てだった。ミトは手を震わせながらも言う。

「でも、今年は畑を放せないの。孫が待ってる。頼むよ、ユズ」

ユズは軸を調べる。見える亀裂はない。しかし木の繊維が疲れているように感じられた。選択は鮮明だ。助ければ代償が来る。助けなければ苗は枯れるかもしれない。工具の柄を握りしめる手に力がこもる。

「わかった。一度だけ、ミトさんの畑に風を分ける。ただし、羽根が折れても責めないでくれ。俺も代償を負う」

「負償って……?」ミトの手が震える。

「息がしばらくまともにできないかもしれない。それでもいいか?」

ミトはためらうが、顔を上げるとすぐに答えた。「いいよ。ここにいるみんなのためなら、あんたの息一つぐらい惜しくはない」

周囲の村人――屋根越しに覗く若者、畑仕事を休めない中年、遠くで物を運んでいた子どもたち。声は小さかったが、誰もがそれぞれにうなずいている。助けを請う者と、それに同意する共同体。ユズはその重みを感じた。

「どっちに回してほしい?」とユズが問う。

ミトは畑の向きを指でなぞった。「あっち。川の方へ。種が向こうの斜面に流れるように」

ユズは手順を頭で繰る。まずは羽根を清掃し、摩擦を減らす。ハブのネジを締め、舵角を微調整する。最後に、願いを受け取る位置取り。村人が本当に望む方向をここに結びつけるのが彼の役目だ。ミトに、心の中で「みんなのために回してほしい」と思ってくれと促す。ミトは震える声でそれを繰り返した。

ユズが手を羽根の根元に当てると、冷たい金属が皮膚に伝わる。微かな冷流が先端から戻ってきて、羽根がゆっくりとうなるりと動き始めた。最初はかすかなうなり声。それが勢いを増すと、朝の霧が畝を抜け、稲苗が一斉に揺れる。歓声が上がった。ミトの顔がぱっと明るくなる。

そのとき、ユズの胸に鋭い痛みが走る。息が浅くなり、肺が空気を拒むように熱を帯びた。膝を折り、片手で羽根を押さえながら荒い呼吸を吐く。周囲の景色が薄く波打つほどだ。

「ユズ、大丈夫か?」誰かが叫ぶ。ミトが駆け寄り、その肩を支える。だが胸の痛みは消えない。吐くたびに焼けつくように苦しい。羽根の付け根から、木がきしむような嫌な音がする。ユズは目を見開いた。

一人に願いを集める行為は、羽根を“使い切り”にする――彼はこのことを数日前の実験で確かめていた。したがって今、その端が限界を告げていた。小さな亀裂が羽根の表面に走り、ぱり、と乾いた破裂音が谷に響く。

「ヒッ」息を詰まらせ、ユズの顔が青ざめる。胸が強く刺されるような痛みで力が抜け、彼は膝をついたまま地面に手をつく。歓声は恐怖に変わり、畑からは人影が集まる。しかし苗は、確かに風に乗った。種は畝へと散っていく。

ミトは涙ぐみながら手を合わせる。「ありがとう、ユズ。助かったよ」

だがその言葉はユズの胸の痛みを癒さない。見上げれば羽根はゆっくりと止まり、しかし亀裂は広がる気配を見せている。ひとつの亀裂はやがて片側の羽根を失わせ、塔全体に深刻な負荷をかける。修理すれば直る。しかしこの谷に、木や金属の供給も、人手も豊富ではない。

ユズは息を整えようとする。鼻から吸っても胸がきしむ。手を工具箱に伸ばし、古びた布をきつく折り畳むと、指先にオイルの匂いが残る。ふと、近くにいた農夫の若者が前に出た。泥の付いた手のひらを差し出している。

「直すの、手伝わせてください。俺の畑もある。放っておけない」

声は震えているが、押し出される決意がある。別の年長の女性も手袋を外し、手首の筋を見せる。「うちの釘と古材、持って来られるよ。みんなで直そう」「井戸で夕方、話し合おう。どうするか決めるんだ」

彼らの表情には、自分の意思で参加する強さがあった。ユズはその顔を一つ一つ見て、胸の痛みとは別の場所に小さな温度が広がるのを感じた。頼まれれば助ける――それだけが彼の出発点だったが、今ここで目の前の人々が自分の判断で動いた。守る対象はミトだけではない。谷全体、ここに暮らす日々そのものだ。

遠く、谷の入口の林の向こうに旗が見えた。高さのある旗竿に黒い布が翻る。その輪郭は逆風のように見え、ユズの胸の奥が冷たくなる。噂はただの噂ではなかった。上流に仕掛けられた測定器。旗を立てる者たち。今日の亀裂がそれを教えてくれた。

「ユズさん、休んで。医者を呼ぶから」誰かが言う。ミトは首を振り、若者たちが工具を集め始める。彼は静